応募した小説が新人賞に、仕事を再開
明けて1966年、はじめて応募した小説が新人賞になり、再びジャーナリズムで仕事を再開することになった。
翌年、直木賞をもらって、部屋を引っ越しした。金沢刑務所のすぐ裏のアパートから、こんどは精神科の病院の構内にある一軒家に移った。配偶者がその病院に勤務することになったのだ。天気のいい午後など、ふらりと患者さんが遊びにきたりする。詩を書く少年がいて、噛み合わない話などをして帰ることもあった。当時の生活については、「小立野刑務所裏」という私小説ふうの短篇に書いたことがある。
鬱屈した気分で地方都市へ住んで、半年もたたないうちに、再びマスコミの渦の中に放りこまれたわけだから、私もすこぶる混乱していた。新人賞をもらっただけで十分、という気持ちもあった。直木賞というのは、職業作家の証明書のようなものだ。受けた以上は、ジャーナリズムの要請に必死で対応しなければならない義務がある。
一作の新人賞で自足し、できるだけひっそりと北陸で暮らしていくか。それとも、意を決してメディアの渦の中に身を投じて生きるか。そのとき直木賞の候補になることを受けるか受けないかで迷った、などと言えば、だれも信じないだろう。偉そうなことを、と笑われるのがオチである。
しかし商業ジャーナリズムの苛烈な一端をかいま見て、そこから逃亡した私としては、正直、迷うところがあったのだ。