宗教においての「ジェンダー」

女性を差別しているとは、イスラーム社会について聞かれる常套句である。ただし、そもそも宗教には男性中心主義的な性格が強く見られる。サウジアラビアの状況について述べる前に、宗教とジェンダーについて簡単に説明しよう。

宗教とジェンダーの問題を眺めたとき、その背景にはおおむね「女性は男性に従うべき」「女性は汚れている」「女性は社会の風紀を乱す」という三つの考えがある。

たとえば日本の宗教文化に目を向けば、釈迦の弟子たちが伝えてきた八敬法(はちきょうほう)によって尼僧(にそう)は常に男性僧侶を敬うべきとの考えが示されてきた。また女性は月経・出産に伴う出血によって穢れるため、社寺や霊山への立ち入りを禁じられてきた。このほか、女性は漁場や狩猟場などの女神の嫉妬を引き起こして厄災を招き、男性の心を惑わすといった「悪影響」も強調される。

こうした考えのもと、宗教はしばしば男性が「聖なるもの」を独占することを許してきた。女性を男性より劣る、あるいは男性の修行の妨げになる存在と位置づけ、霊場や儀式への立ち入りや宗教指導者となることを禁じてきたのである。

もちろん、世界には女性が聖なるものを独占する宗教もある。前者でいえば日本では中山みき、出口なおという女性の「神がかり」によってはじまった天理教(1838年~)や大本(1892年~)がよく知られている。

ただし天理教には真柱(しんばしら)と呼ばれる職制上の指導者が存在し、これは中山みきの子孫である男性が務めている。また大本では、出口なおの娘婿である出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)が啓示の正典化に努め、大本の教義体系を確立した。

つまり、巫女にとっての山伏(解釈者)となる男性が存在したわけだ。この点、両宗教で女性は聖なる存在にアクセスする役割を有していた一方、組織としての宗教を統制する権力は男性が担っていたといえる。

とはいえ、天理教や大本がいずれも「近代」と呼べる時代に興ったことは重要であろう。

キリスト教ではプロテスタントは女性牧師を認めており、英国国教会でも20世紀になって女性司祭が誕生した。ユダヤ教では、18世紀後半のハスカラー運動(ユダヤ啓蒙主義)によって女性が教養として宗教を学ぶ機運が高まり、20世紀には非公式ながら女性ラビ(宗教指導者)も誕生した(石黒安里「現代アメリカにおけるユダヤ教の境界線」)。日本でも、明治時代に社寺や霊山での女人禁制が解除されている。

このように、近代が掲げた「宗教からの解放」は、部分的ではあるが宗教におけるジェンダー・ギャップの是正につながった。しかしこれによって、ジェンダー・ギャップが残る宗教や社会は前近代的で、未発達とする見方が育まれてきたことも確かである。