私小説ならぬ、私歌謡のプレゼント
ペギーさんの生涯について、私はまったく何も知らない。しかし、いろいろと大変そうな噂は耳にしていた。それにもかかわらず彼女は一度も曇った顔を見せずに元気にふるまって生きていた。
彼女が亡くなる少し前、私は一つの歌を書いた。作曲は『天城越え』の弦哲也さんだった。
「曲を先に作ってください」
と、私は弦さんにお願いした。そしてできてきた曲に歌詞をつけた。
「歌い手はペギーさんで」
と、私はスタッフに注文した。
「え? ペギーさんですか。曲は『舟唄』みたいな日本調のイメージだと作曲家は言ってましたけど」
「いや、歌は詞で変ります。ぜひ、ペギーさんで」
私はその歌をペギーさんにプレゼントするつもりだったのだ。私小説というジャンルがあるからには、私歌謡というものがあってもいいのではないか。
私は彼女がひと言ももらさなかった彼女の私生活を想像しながら詞を書いた。
『夜明けのメロディー』というのが、その歌である。
作曲家が演歌調の『舟唄』をイメージして書いたという曲が、ペギーさんの歌でシャンソンのような歌に変ったのは、作為的なものではない。歌の誕生には、そういうことがしばしばおこるものだ。
私の直木賞のパーティーに駆けつけてくれた時のペギーさんは若々しく、エネルギーにあふれていた。
しかし、『夜明けのメロディー』をうたう彼女には、人生の苦さを笑顔で耐えぬいた年輪が深く蔭をおとしていた。コマーシャルソングから50年以上の年月が過ぎていた。そして、その歌をのこして、彼女は逝った。
一生に何度かしか会わなかった人のことが、どうしてこんなに思い出されるのだろうか。
ペギー葉山(ぺぎー・はやま) 1933年東京生まれ。終戦後、米軍キャンプでジャズ歌手として活動を始め、52年に「ドミノ/火の接吻」でデビュー。ミリオンセラーの「南国土佐を後にして」や、自ら訳詞をつけ歌った「ドレミの歌」で幅広い世代に親しまれる。2017年死去