二度目の出会いはミュージカル
やがてCMソングの世界に疲れて、私は新しくできたレコード会社へ移り、作詞家として専属契約を結んだ。その当時は、専属制というきびしい垣根が音楽業界を支配していたのである。
ペギーさんとの二度目の出会いは、私が大阪労音の創作ミュージカルの仕事を引き受けたときだった。当時の労音といえば音楽業界からショウビジネスの世界までを席捲する巨大な組織で、新しい創作ミュージカルに安部公房や、いろんな作家を起用して野心的な舞台をつくる運動をはじめていたのである。
どういうわけか私にその依頼があって、私は張り切ってミュージカルの台本を書いた。
戦前のプロレタリア作家、葉山嘉樹の『セメント樽の中の手紙』という作品をもとに、新作のミュージカルを作りあげたのだ。主演にペギーさんを起用したのは、私のたっての主張だった。友竹正則さんが共演してくれて、新しい労音ミュージカルの準備がととのった。
ペギーさんのリハーサルを見たのは、いつ頃の季節だったのだろう。彼女は急な坂道を駆けおりるシーンで、何度も汗をぬぐいながら稽古を続けていた。
「もっと激しく駆けおりるようには、いかないものだろうか」
と、演出のスタッフに注文をつけたのは、私の勝手なイメージからだった。ペギーさんは何度となくそのシーンを繰り返して、最後には肩で息をしていた。根性のある人だな、と私は感動したものだった。
ずいぶん年月がたって、あるときペギーさんが、ぽつりと呟くように言った言葉が、私の胸につきささった。
「わたし、あのとき妊娠してたんです」
そうとも知らずに、急な坂道を全力で駆けおりてほしい、と何度も要求した自分が、恥ずかしかった。それにしても彼女はそんなことをひと言も周囲にもらさず、激しいリハーサルを続けていたのである。