「躾のつもり」と「強くしてやりたかった」は同じ
山口 訴えた選手たちは、「おまえたちは殴らなければわからない」という監督の考え方に疑問をもったということです。子どもを虐待した親は「躾のつもりだった」と言いますが、スポーツ界の「強くしてやりたかった」という暴力も同じ理屈。
そもそもスポーツは、苦しい場面で自分を鼓舞しながら乗り越えて上達していくものです。その精神が、生きていくうえでの《自立》に繋がる。指導者に殴ってもらうことで気合が入るというなら、それは《依存》です。
酒井 山口さんは、柔道の世界に女性が少ない時代から国内外で戦ってきましたが、ロールモデルがいないなかでの選手生活、つらくはなかったですか。
山口 ロールモデルがいないからこそ、縛られず自由にできたし、自分で考えて判断することができたとも思っています。ただ困ることもありましたね。たとえば道場で男子たちが平気で着替えるので、「私、ここにいるんですけど」といちいち言わなければならない。
酒井 そもそも女性がいることに気づいていないんですね。
山口 相手が気づかないことは、こちらから言わなきゃいけない。そういうことの積み重ねでした。
酒井 改善を求めてハッキリ物申す、そういった経験が山口さんの議論を回避しない性質に繋がったのでしょうか。
山口 私が学んだ筑波大学の前身は明治5年設立の師範学校で、長く校長を務めたのが講道館柔道の創始者である嘉納治五郎なのですが、嘉納先生は柔道の修行に「問答」というのを入れているんです。一方的に自分の考えを押しつける「上意下達」ではなく、意見があるなら言いなさい、つまり議論しましょうと。その気風が私に残っているのでしょう。