思えばいろんなことをしてきたものですね。

東大寺のご本堂の弁慶千回記念のときは、大仏様のお声が聞こえてきましてね。まずは春日山の鹿の声がキーンキーンと、一瞬の静寂の中を響いてきて、やがて勧進帳読み上げのときでしたかね、「人を笑わせたり涙を流させたり、ましてや感動を与えるなんてことは容易なことではない。それをお前は生業にしている。心して励めよ」と、たしかそんなふうにおっしゃいました。

私の祖父・七代目幸四郎は、弁慶を生涯に1600回つとめました。この記録はもう誰も破ることはできませんね。祖父は78歳で亡くなるんですが、そのとき私は七つくらいでした。父はその日、『勧進帳』の弁慶をつとめていて、その扮装のままで駆けつけてきたのを、子ども心に何だか不思議な気分で眺めたものでした。

私の弁慶もあとどのくらいできるか。役者というのはご要望があるうちは頑張らなきゃいけない、という考えですから、あまり「一世一代」と銘打ったりするのは好きじゃないんです。

だから怪我をしたり病気をしたりするのを公にするのは役者らしくないと思う。これはポリシーですね、私の。怪我も病気もいっぱいしましたけど、一切それは表に出さないで、舞台に立ってました。

休んだのはただ1回だけ。先ほど言ったブロードウェイの過酷な公演を2ヵ月半務めて、帰国してすぐ「木の芽会」という、われわれ兄弟の勉強会があったんです。『勧進帳』で、弟が弁慶で私が富樫だったんですが、引っこんできて、食堂の机の脚につかまったまま動けないくらいの激痛。腎臓結石だったんですね。そのときは父が代わりをしてくれました。親に代わりをさせた役者もあんまりないし、休みが一回しかないというのもあまりないでしょうね。