何もしないでいることが、こんなに難しくて苦痛なのか

蚊帳の外の存在でいることが情けなく、一念発起、夢中でフランス語に取り組みました。ふつう2年以上はかかるというアリアンス・フランセーズの単位を半年で取り、ソルボンヌの文学部へ入りました。でもこれは、正直いって続かなかった。接客や、プレミア・ショーや会食が多くて、ベッドに入るのが朝方。私のとった授業は朝8時なので、いくら若くても、眠くて眠くて……。1年で中退です(笑)。でも、個人教授や自習で1日8時間は勉強したわね。嫁いだ家がああいう環境でなかったら、そこまで必死にはならなかったと思います。

それにシァンピ家では、家事は執事兼料理人のラプロンシュ夫妻がいっさいをとりしきっていたし、お客をするとき、私にできる唯一のことは、生け花ぐらい。家のことに手を出せない不満を発散させて、私の生ける花は、建造物のように大きくて立派なのよ。それを見たマリーという長年いる女中さんが眼を白黒させて花をバサッと抜き、たくさんの花瓶にちまちまと分けて生け直すの。

「私の生けた花に触るな! これは日本の芸術なんだぞ!」と言いたいけど、きつくなく、しかも威厳をもって、ちょっとユーモラスに言えないものか。勉強に拍車がかかった一方で、ストレスも溜まりましたね。私はたえず動いて働いていたい人間なので、あまり大事にされて何もしないでいることが、こんなに難しくて苦痛なのかと精神的に不安定になったり、不眠症になりました。

──女優という仕事を再開することは、考えなかったのですか。

いえ、引退したわけではなかったし、アメリカや英国からオファーがたくさんありました。

でも私に映画の話が舞い込むと、イヴはだめとは言わなかったけれど、いかにも切なそうな顔をしたので、無念ながら断っていたのです。フランス映画やスペイン映画には出ました。地理的に近いから(笑)。そのうちに私のフランス語にも磨きがかかってきて、ジョークやフランス人お得意の小咄もできるようになったの。

■『婦人公論』に見る若き日の岸さん

本誌初登場は22歳。久我美子さん、有馬稲子さんとともに立ちあげた「にんじんくらぶ」のメンバーとしてグラビアに登場(1954年12月号)
一時帰国した際、戦時下の日本でスパイ活動を行い死刑になったソ連の諜報員ゾルゲの足跡を取材し寄稿したグラビア(1960年6月号)
結婚10年の節目に川端康成さんと対談。川端さんとは、岸さんのフランスでの挙式に結婚立会人として列席した縁も(1967年8月号)