第 一 章 二〇一九年

 

 当機はただいまより高度を下げて着陸の準備に入ります、というアナウンスを聞いて、みのりは飛行機の窓に額(ひたい)をつける。浮かぶ雲の下が青く染まっている。海だ。やがて飛行機は分厚い雲を突っ切る。青が広がる。船もなく波もない。ただの深い青にみのりは見入る。

 数列うしろで赤ん坊が泣き叫ぶ。気圧が変わると耳がおかしくなることを赤ん坊は知らない。あくびをすれば耳が元どおりになることを知らない。耳がへんだと母親に言うこともできない。何もわからないまま耳の奥がぎゅんと潰れたように感じるのは、さぞやこわいだろうと、大きくなっていく赤ん坊の声を聞いてみのりは思う。母親が子どもをあやすちいさな声も聞こえてくる。チッ、とみのりの真うしろの乗客が聞こえよがしに舌打ちをする。赤ん坊は声を張り上げて泣き続け、母親はしーっ、しーっ、と教え諭(さと)すようにつぶやいている。やがて窓の外に島の縁が見え、山々が見え、連なる建物の屋根が見えてくる。

 連れ戻された、という気持ちが自分の内に広がって、それは慣れた感情なのだが、やはり少し困惑する。大学進学を機に東京に出て以来、みのりは今まで何度も帰省している。連れ戻されたわけではなく、自分の意思で帰っているのだし、しかも、数日の滞在でまた東京に戻る。けれども二十年前に飛び立ったこの空港に着陸するたび、連れ戻されたとみのりは感じる。わくわくと胸躍らせて出ていった場所に、不覚にも連れ戻されてしまった、と。

 シートベルト着用のサインが消えると、乗客はいっせいに立ち上がる。通路に列ができる。ざわめきのなかから、赤ん坊の泣く声と、しーっ、しーっ、静かに、とつぶやく母親の声がすり抜けるようにして聞こえてくる。何気なく振り向くと、赤ん坊を抱いた若い女性と目が合う。彼女はばつが悪そうに目を伏せ、みのりは申し訳ない気持ちになる。若い女性は赤ん坊の泣き声を非難されたと思っただろう。

 ゆっくりと列が進みはじめる。荷物棚からボストンバッグとみやげものの入った紙袋を取り出し、みのりもゆるゆると続く。

 実家までは空港からバスで四十分ほどだ。バスに乗りこんで前方の窓際席に着き、みのりはスマートフォンをチェックする。夫の寿士(ひさし)から「着いた?」とLINEがきている。着いた、と打ち、パンダが敬礼しているスタンプを送る。赤ん坊の泣き声が聞こえて顔を上げると、さっき飛行機でいっしょだった母親と赤ん坊である。スリングに入った赤ん坊は、頭をのけぞらせて泣いていて、その声はもう嗄(か)れかけている。母親は片手でスリングをおさえ、片手で大きな布バッグを抱え、泣きそうな顔で通路を進み、みのりのうしろの席に着いた。振り向いて、いないいないばあをしたくなるが、でもまた母親は、泣き止やまない赤ん坊を、いや、赤ん坊を泣き止ませられない自分を非難されたと思うかもしれない、と考えて、みのりは黙ってスマートフォンをいじり続ける。