階段を下りる音が聞こえ、「ああ、おばちゃん」と陸が顔を出す。中学二年の甥っ子の声変わりに、みのりは未(いま)だに慣れない。年末年始に会ったときより背丈も高くなり肩幅も心持ちがっしりして見えるが、子どものときと同じく屈託(くったく)のない顔で笑っている。
「なんができよんな陸、ここで」
「何いうかべつに何ちゃ。今は漫画読んどった」
会話が途切れる。陸は困ったように笑い、食卓に載っている箱を見つけて「あっ東京ばな奈」わざとらしく声を上げ、「食べてえんな? じいちゃん」と訊いている。むーとももーともつかない声で清美がうなずくと、陸は箱を開け、個別パッケージされた菓子をひとつとると、「ほんだら、また」と言って部屋を出ていった。
「あの子、学校いっとらんの?」足音が階段を上がっていくのを聞いて、みのりは清美の耳元近くで訊いた。
「ああ? そやなあ」テレビを見たまま清美は間延びした声で言う。「ほんだけどまあ、ここきて、いろいろやってくれるけん」
家にいるならじいちゃんのところにいけと啓輔か由利が言っているのだろう、と思いながら、「またあとでくるな」みのりは立ち上がる。
祖父母宅を出て自宅に向かう。祖父と会話が成り立たないのは昔からだ。祖父はともかくしゃべらない。自分の意見を言うこともないし、何かを報告することもない。質問すると、そうだともそうではないともとれる言葉をくり返す。けれどもみのりは祖父が昔から好きだったし、親族のなかでもっとも親近感を持っている。
玄関の鍵は開いていたが家にはだれもいない。母はほうらい家だろうし父はアルバイトか、あるいはどこかで遊んでいか。食堂のテーブルには、祖父母宅と同じように、輪ゴムで留められたせんべいの袋や何かの振込用紙や食パンの袋が雑然と載っている。みのりはそれらの上にみやげものの袋を置いて、二階にいく。
高校を卒業するまで使っていた部屋は、今はだいぶ片づけられている。ピンク色の絨毯(じゅうたん)も本棚も学習机も処分され、そのかわりに埃(ほこり)っぽい段ボール箱やビニールに覆われた健康器具が運びこまれている。ベッドだけ、もともとあった窓際に置かれている。みのりはコートを脱ぎ、クロゼットのハンガーに掛け、振り返って部屋を見まわす。この部屋で音楽を聴き勉強をし、漫画雑誌を開き友だちへの手紙を書いていたころのことを、みのりはもううまく思い出すことができない。
夕食は伯父夫婦の家でとることになった。六時過ぎ、みのりは帰ってきた母親といっしょに伯父夫婦の家に向かう。玄関の戸を開けると、テレビの音と、何か会話する騒々しい音声が飛び出してくる。
「なんか手伝おうか?」サンダルを脱ぎながら母親が訊く。
「お邪魔しまーす」みのりもあとに続いた。
茶の間にちゃぶ台と長方形の和机が並んでくっつけられている。伯父の克宏(かつひろ)はすでにビールを飲みながら何かを食べている。「おう、お帰り」みのりを見てどうでもよさそうに言う。
「タマちゃん、唐揚げ手伝うてーな」台所から伯母(おば)の容子(ようこ)が声を張り上げ、母親がそちらに向かう。みのりも台所にいき、容子に手渡される大皿やグラスを茶の間に運ぶ。母はお盆に取り分けられた料理を持って、祖父母の家に届けにいく。祖父母の食事は、数年前から伯母と母が交代で作っている。