大きな達成感

この本の書き出しを読むと、こうなっている。

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スペインのウエルヴァの町の墓地に、あるイギリス臣民が眼っている。1942年の晩秋、イングランドの深い霧のなかで、彼が一人淋しく死んだときには、彼は自分が、軍葬の礼をつくした葬儀をうけて、燦々と輝くスペインの空の下に、永遠に横たわろうとは少しも考えていなかった。いわんやまた、死んでから、連合軍に奉公して、幾多のイギリスおよびアメリカ人の生命を救うことになろうとは、いささかも考えていなかった。生前彼は、祖国に尽したことはなかった。だが死後、彼は、一生かかっても尽し切れないほどの奉公を国につくしたのである。(誤字、文字遣いを含め、原文のまま)

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わたしも、スペインがこんなかたちで、第二次大戦に関わっていたとは、知らなかった。がぜん、第二次大戦中のスペインの立場や、関わり方について興味がわいてきた。同時に、そのころおぼろげながら構想していた、第二次大戦中の情報戦をテーマとする、長編シリーズの重要な資料になる、と確信した。

結果的に、わたしはこの〈ミンスミート作戦〉のエピソードを、〈イベリア・シリーズ〉全七作のうちの第四作、『暗い国境線』で本格的に取り上げた。とはいえ、それまでに実に三十年の月日が、たっていた。

そのあいだ、〈ミンスミート作戦〉について詳しく書かれた著作は、フィクションにせよノンフィクションにせよ、わたしが知るかぎり翻訳ものも含めて、日本では一冊も刊行されなかった。

『放流死体』のあと、同じ本が『ある死体の冒険』と改題されて、筑摩書房の世界ノンフィクション全集第二十六巻(1962年)に収録されたのが、唯一の例外だったと思う。

そうした経緯をへて、ようやくこの作戦を『暗い国境線』に取り込んだのは、2003年~5年の足かけ三年にわたる、雑誌連載によってだった。執筆前に、何度かイギリスとスペインに飛び、この作戦が展開された場所をあちこち訪れて、未入手の関連資料を買い込んだりもした。

ことに、作戦の舞台になったスペインのウエルバでは、写真や図版入りの分厚い一次資料を、手に入れた。『放流死体』の中で、簡単にしか触れられていない作戦遂行の経過が、詳述されているのには大いに助けられた。

ウエルバの墓地を訪れ、死体として作戦の主役を務めた、〈ウィリアム・マーティン海兵隊少佐〉の墓も、この目で確認している。半世紀が過ぎた当時においても、モンタギューの書き出しにあったとおり、きちんと保存管理されていたのには、驚かされた。

そんなこんなで、だれも触れなかったこの〈ミンスミート作戦〉を、三十年をへて小説に取り入れたときは、大きな達成感を味わったものだった。その時点でも、万が一のことを考えて、モンタギューをマングラムにするなど、一部の実在の人物に仮名を使用した。