わたしはきわどい危機をかろうじて、すり抜けた
それだけにその六年後、2011年に本書『ナチを欺いた死体』が翻訳出版されたときは、「なぜ今ごろ……?」とばかり、少なからず複雑な心境になった。思えば、原書が出版されたのは2010年で、その時点でもすでに『暗い国境線』を書き上げてから、五年たっていた。
そうした事情もあり、その翻訳の出版に接してうれしい気持ち、残念な気持ち、安堵する気持ちなど、いろいろな思いが重なり合って、感慨無量になったわけだ。なぜなら、原書だけの出版ならまだ救いがあるが、執筆以前に翻訳されていたらと考えると、冷や汗の出る思いがするからだ。
読者がほとんど知らないことを、どうだまいったかとばかり提示するのが、小説家の唯一の、とはいわぬまでも、数少ない誇りの一つだとすれば、それが失われることによる打撃は、並たいていのものではない。すでに、すぐれた研究書が出ているにもかかわらず、その内容をなぞるような仕事をするのは、作家としてのプライドが許さない。わたしは、そうしたきわどい危機をかろうじて、すり抜けたのだ。
そのため、この『ナチを欺いた死体』の訳書には、個人的にも特別な思い入れがある、という次第だった。最大の驚きは、わたしの知らなかった未確認情報が、山ほど詰まっていたことだ。この作戦に関して、これ以上のリポートは今後出ることはない、と断言していいだろう。
本書によれば、この作戦の基本となったアイディアは、バジル・トムソンという作家の小説から、思いつかれたという。それを読んで、そのアイディアに現実性を付与したのが、イアン・フレミングだったらしい。
さらにその原案に、当時実際に発生した飛行機事故から着想を得て、MI5(保安情報部)のチャールズ・チャムリー(Cholmondeley をこう発音する)なる部員が、作戦を実際に遂行できるように、組み上げた。そして、最終的にそれを実行する指揮をとったのが、ユーエン・モンタギューということになる。
本書は、そのモンタギューが残した極秘書類を精査し、〈ミンスミート作戦〉の全貌を明らかにした、文字どおりの労作である。第二次大戦に関するかぎり、この欺瞞作戦はDデイ上陸作戦のそれと並ぶ、最高の成功例だろう。わたしにとっても、最初に入手した『放流死体』とともに、座右の書の一つといってよい。
*本稿は、「ナチを欺いた死体:英国の奇策・ミンスミート作戦の真実」(中公文庫)の解説を再編集したものです。
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映画:「オペレーション・ミンスミート ーナチを欺いた死体-」
公開日:2022年2月18日(金)全国ロードショー
監督:ジョン・マッデン『女神の見えざる手』『恋におちたシェイクスピア』
出演:コリン・ファース『キングスマン』『英国王のスピーチ』、マシュー・マク
ファディン『エジソンズ・ゲーム』、ケリー・マクドナルド『T2 トレインスポッ
ティング』、ペネロープ・ウィルトン『ダウントン・アビー』、ジョニー・フリン
『スターダスト』、ジェイソン・アイザックス『フューリー』
配給:ギャガ 原作:「ナチを欺いた死体:英国の奇策・ミンスミート作戦の真実」
ベン・マッキンタイア―著(中公文庫)
原題『Operation Mincemeat』/128分/イギリス/2022年/カラー/シネスコ/5.1chデジタル/字幕翻訳:栗原とみ子
(c)Haversack Films Limited 2021
gaga.ne.jp/mincemeat <http://gaga.ne.jp/mincemeat>
STORY:第二次世界大戦時、1943年、イギリスはナチスを倒すため、イタリア・シチリアを攻略する計画を立てていた。英国諜報部のモンタギュー少佐(コリン・ファース)、チャムリー大尉(マシュー・マクファディン)、イアン・フレミング少佐(ジョニー・フリン)らが練り上げたのが、欺瞞作戦“オペレーション・ミンスミート”だ。
第二次世界大戦の行方を変える決定的な分岐点で秘密裏に実行され、戦後長らく極秘扱いされてきた驚くべき作戦。その全容がいま明らかになる!