孫のお受験まで考えていた母
しかし、1度目の結婚のときには避妊をしていないのに、1度も妊娠の兆しはありませんでした。もっとも結婚して1年半が過ぎた頃には、夫は現在の妻と出会い外泊を繰り返すように。私は、いわゆる《サレ妻》になっていましたから、出産の計画など、あるはずがなかったのですが……。
不妊治療を始めた36歳というのは、「子どもが欲しい」という同い年の男性にやっと出会えたのがきっかけでした。いや、欲しいとか欲しくないとかではなく、3人きょうだいで、上の2人は姉、つまり末っ子長男である彼や彼の家族の間では、子ども=跡継ぎを作ることは当たり前。私自身も、早く産んで、同級生の多くと同じように子どもを母校に入れてみたいと、また考えるようになっていました。
最初の結婚のとき、私は、そうするものだと信じていたのです。もっと言うならば、それは私の母の悲願でした。実は、母や祖母は最初の結婚には大反対でした。それでも私が反対を押し切って結婚できたのは、「孫を美保子の母校に入れる」ことが母にとって最大の願いだったからです。
そのために、母は私の小学校時代の先生との年賀状のやりとりをずっと続けて《関係》を保っていました。また、私が苦手としていた担任の先生の経営する書道教室にも、母自身が長いこと通ってくれていました。《お受験》の面接を少しでも有利にするため、小さな《御縁》はできるだけたくさん持っていたいと母は本気でしたから。
不妊治療のため、最初に行った病院は、仕事で知り合った著名なベテラン女性医師が週に1回、勤務する大病院でした。交際期間4年を含め、最初の夫と不仲になるまでの5年間、一度も妊娠はしなかった私。36歳での再婚を機に、年齢も年齢だし…とその医師に相談したところ、「では一度、検査にいらっしゃい」と言っていただき、アポをとったのです。