中村 仕事相手が後に妻になるわけですが、田鶴子さんのどんなところに惹かれましたか。

猪木 彼女は食べることが大好きだったので、全国津々浦々のいろんな美味しいお店を知っていて、蕎麦ならここ、お肉ならここよ、と。私は選手時代はあまりに忙しくて、美味しいものなんかあちこち食べ歩いていないので、グルメの彼女が予約困難な店を押さえてくれて、一緒に御飯を食べることがなにより楽しかった。

たとえばハマグリだと桑名のどこ、あるいは東京でも美味しいウニを食せる店、大根料理の専門店とか、私を喜ばせようとしてくれる。私は胃袋を掴まれたというか、結局のところ、食べ物につられちゃったのかなあ。(笑)

 

「スーツに赤いストール」は彼女が決めてくれた

中村 私は田鶴子さんと議員会館でお会いしていますが、小柄で綺麗な方でした。猪木さんのことはどんなふうにサポートなさっていたのでしょう。

猪木 選手時代はひた隠しにしていましたが、私は若いときから重い糖尿病と闘っていて、それがもとで死にかけたこともある。レスラー時代の暴飲暴食や肉体酷使がたたって、いまではもうボロボロです。

彼女は父親が医者で母親が看護師なので医療方面にも詳しくて。私の体調をいろいろ気づかってくれていましたし、あの小さな体で図体のでかい私を日課のようにマッサージしてくれました。私が朝起きたとき体を踏んでくれたり揉んでくれたり、それも自分の仕事だと思って一所懸命にやってくれていましたね。

中村 私がお目にかかったときも田鶴子さんは元気そうでしたから、ご病気だとは知りませんでした。

猪木 周囲にも漏らしていなかったし、だれも知らなかったはずです。没後に初めて診断書を見て知ったのですが、膵臓にある膵頭のがん。闘病期間は6年でした。私と仲良しだった九重親方(元横綱・千代の富士)も膵臓がんで、残念なことに見つかってすぐに亡くなってしまいましたけど、膵臓がんは、早い人は発見後、1、2年らしいんです。

中村 膵臓がんの5年生存率は9.2%といわれていますものね。

猪木 そう考えると、本当に頑張った。ただね、彼女は自分の病気のことを、私にさえ一切言わなかった。だから彼女がどうやらがんらしいと気づいてはいたけれど、正確には把握していなかった。私自身も病気を抱えているし、仕事もあるので、彼女は自分のことで心配をかけたくないという思いがあったと思います。

それがなんとなくわかるから、あえて聞くこともしませんでした。彼女は側近に細かいことを伝えていて、死んだら家族葬にしてくれとか、私の世話を頼むとか言い残して、旅立つ準備をしていたそうです。

中村 深い愛情を感じますね。

猪木 愛とか言ったこともないし、照れくさいんだけどね。病名がわかったのも、彼女が亡くなってしばらくぶりに自宅に帰ってきたときに、鞄を整理していると「〆」印のある封筒を発見して、それが医師の診断書だったんです。

中村 隠していたと。