猪木 結局最後まで私には言わなかったですね。毎年六本木で花見をするんですけど、口にしないまでも、来年もまた一緒に桜が見られたらいいなあ、と心のなかで念じていました。日本各地の温泉に一緒に旅行しましたし、楽しい思い出はたくさんあります。
思い返せばパラオ、北朝鮮、パキスタンや、毎年のヨーロッパ、一昨年はブラジルと、私の外遊には必ずついてきてましたから、病気を理由に置いていかれちゃうと思ったのかもしれない。
中村 猪木さんも腰の大手術を何度もしていらっしゃる。田鶴子さんはご自身のことよりむしろ猪木さんのことを心配なさってたんじゃないですか。
猪木 そうかもしれないね。最近も私は2ヵ月間極秘で入院していて、マスコミに猪木は車椅子生活とかいろいろ騒がれましたけど、病院嫌いの私に代わってあらゆる対応を彼女がやってくれた。これまでも過剰なくらい、自分がどんなに悪者扱いされようとも、防波堤の役割をしてくれましたね。
中村 猪木さんと田鶴子さんに批判的な報道もありましたね。
猪木 彼女は写真家だから、見た目のイメージにも細かく気を配っていました。「元気に見せなきゃいけない」と、スーツに赤いストールという格好を決めたのも彼女だったんです。そんな彼女もまた入退院を繰り返していて、最後の入院となったのは亡くなる2ヵ月前。本人は退院する気満々だったようなんですけど、状況を見てこれは難しいと。
私の人生はただただ自分の思う夢を追いかけて、女性や家庭を振り向かなかったというか、過去に別の家内に逃げられたこともあったんですけど、そんななか彼女が、ずっと私についてきてくれたことに感謝しています。
おくりびとよりおくられびとがいい
中村 最後の2ヵ月間はどう過ごしたんですか。
猪木 同じ病院で過ごしました。さっき言ったように私も手術のために長期間入院していましたから、彼女が手配して隣部屋にしてもらったんです。見事に首根っこをまれて、「最後まで私を振り向いて」と言われているようなものですよ。だから最後まで一緒の時間を過ごすことができました。
中村 よかったですね。
猪木 そうですね。それでも彼女は退院することを望んでいました。ただ私もこの年齢ですし、いろんな人を見送っていますから、やがて彼女の体に腹水が溜まってきたりして、これはどうなのかなと……。だから担当医に率直に病状を聞いたんです。そうしたら「もう病院から出るのは難しいかもしれません」と説明がありました。「時間の問題ですね。今日か明日かもしれません」と。亡くなったのはその3日後でした。