コツコツと地道に生きてきた人ほど、反動が大きいのでしょうか。堰を切ったように流れ出した浪費という欲望は、すぐさま激流となり……。松村さおりさん(仮名)の心の穴を埋めたのは、高級ブランド店での魔法のような体験でした。

 

エスカレーターに乗って辿り着いたのは

14年間勤めた会社を辞めた。

かつては「研修の要」と呼ばれ、「私がいなければ!」と使命感を抱いて悦に入っていたこともあった。けれど、それも周囲にとってはいい迷惑だったのだ。気づいた時には、誰からも疎まれる存在に。追われるように退職するしかなかった。次の仕事も決まっていなかったのに。

同僚から手渡された形だけの花束と空しさを抱え、帰路についた。そして途中で百貨店に立ち寄ることにした。一人きりで退職祝いをしようと思ったのだ。デパ地下で何か買おう、奮発してシャンパンもいいな、と思った。

そして、地下に下りるべきところを、なぜか上りエスカレーターに乗ってしまった。引き返すこともせず、私はさらに上の階へと進み、辿り着いたのはインターナショナルフロアだった。ほかの階の喧噪とは打って変わって、静かで上品な雰囲気に満ちている。

私はゆっくりと歩き出した。名の通ったブランドばかり。きらびやかなディスプレイを夢中で見て回った。前から好きだったブランド店の前に立つ。気軽に買える値段のものはない。普段はディスプレイを眺めるだけだ。でもこの時は違った。足が勝手に動く。迷いなく中に入った私を店員が迎える。

「いらっしゃいませ」

それ以上は話しかけてくることなく、ある程度の距離を取って彼女は立っていた。それがとても心地よい。いつもはウィンドウ越しに見ていた品々も私を歓迎しているような気がする。なかでも黒のバッグがひときわ私の目を引いた。その視線を察知した彼女が、

「どうぞ、お手にとってくださいまし」

そう言って白の手袋をはめて、棚からバッグを下ろすと、おごそかに私の前に差し出した。

黒の本革に金のブランドロゴが映える。値段を見てひるんだ。ひと月分の給料と同じだ。無職になった私にこんな高価な品を買う余裕はない。冷静に思いとどまろうとした時、彼女は私が店内のソファーに置いた花束を見て言った。

「今日はなにかお祝いなのでしょうか?」