どう生きるかの責任は自分にある

そして3つ目のキーワードは“責任主体”。この世に生まれてきた人は、誰もが責任主体で生きています。どういうことかというと、人生の主人公は自分であり、人生の落とし前をつけるのは自分以外ないということ。

もちろん、体が不自由であったり、困った事態に陥ったりしている人がいれば、みんなで助け合うことは大事。けれども、たましいの視点という哲学のうえでは、どう生きるかの責任は自分にあるのです。

日本人は、血縁、とくに親子や家族という概念に縛られがちですが、家族といえどもたましいは別。親も子も、それぞれ責任主体で生きなければいけません。「親子だから、家族だからこうでなければいけない」といった固定概念に縛られず、自律して生きることが幸せへの道です。

たとえば、子どもに経済的な苦労をさせるから、離婚に踏み切れないと悩む場合。もし子どもに「大学の学費はどうすればいいの? 当てが外れた」と言われたら、「当てにするほうが悪い」と言い返せるぐらいの親でいましょう。

子どもも責任主体で生きるべきなのですから、自分でお金を貯めて大学へ行くぐらいの覚悟が必要。そのためには、小さいときから「人生はサバイバルだ」と教育しておくのが親の務めです。

過去の相談者のなかには、「親に死が迫ったとき、私は延命措置を医師にお願いしました。あの世で親は私の選択をどう思っているのでしょうか」と悩む人も少なからずいました。

誤解を恐れずに言えば、子どもがそのようにいつまでも悩むのは、お人好しすぎるというもの。最期をどう迎えたいか、親がエンディングノートに記していなかったのであれば、それは親の責任です。いざというとき延命措置や財産をどうするか、希望があるならきちんと書き残すのが責任主体。それがなかったのであれば、丸投げした親が無責任だと割り切ることも大切なのです。

そして親の姿を反面教師とし、自分はエンディングノートを書くこと。たとえ天涯孤独の身であっても、同じです。また事情によって希望通りにならなくても、それは仕方のないことと“腹くくり”するのも、責任主体の生き方と心得ましょう。