「でも」「だって」は思い込みに縛られている証し

「1円の得にもならない」「当てにするほうが悪い」と考えるなんて、たましいの視点はずいぶん現実的だと感じる方もおられるかもしれません。多くの人はスピリチュアリズムを、精神論や崇高な言葉で語るものだと思いがちです。しかし、たましいの視点で考えることとは、自分という確固たる軸を持つこと。それは「生きる哲学」そのものなのです。

これまで常識とされてきたことが、時代とともに変わってしまう例はよくあります。私が学生の頃は、運動中に水を飲むことなど決して許されませんでしたし、ウサギ跳びで階段を上らされもしました。しかし、今ではそれらはすべて否定されています。時代の常識というのは、当てにならないこともあるのです。

時代が変わっても普遍的なものがあるとしたら、それはたましいの視点という哲学ではないでしょうか。なぜなら、とても論理的な分析に基づいているからです。

自己憐憫はやめて自分の軸で評価する。何ものにも依存しない。責任主体で生きる。そのロジックは永遠に変わりません。この3つを押さえていれば、腹くくりができ、悩むことなく、もっと自由に人生を切り拓いていけるでしょう。

それでも悩みグセを直せない人は、次のセリフに要注意。「でも……」「おっしゃる通りだけど、だって……」と言っていませんか?それは勝手な思い込みに縛られている証し。古い因習も含め、「誰がそう決めたの?」というような根強い思い込みに、人はなかなか気づけないものなのです。

たとえば「友達なら助けてくれて当たり前」「家族は支え合うのが当然」といった考え方が、あなたのなかにもあるかもしれません。助けてくれるのが友達なのでしょうか?家族が支え合うというのは絶対的な決まりでしょうか?「友達」「家族」という言葉にそんな定義はありません。

「でも」「だって」と言いたい気持ちはわかりますが、そんなときこそ「思い込みでは?」と自分に問いかけ、自己憐憫、依存心、責任主体というキーワードでもう一度、確認してみてください。