過熱していくメディア報道

ここで、メディア報道を見ていく。

『読売新聞』『朝日新聞』は1951年7月29日、宮内庁幹部が皇太子妃選考の下準備を始める旨を報じた。

このうち『読売新聞』は、選考範囲について、皇室親族令(皇室婚嫁令の後継令)が廃止された戦後、伝統保持と民主化の間で宮内庁が悩んでいると書く。同紙は、ある皇族の指摘にも触れた。

皇太子が自分で妃を選べないのは、基本的人権をさえ無視する非民主的な措置であり、もし選定後に皇太子に恋愛問題が起こった場合はどうするのか、と述べるものだった。進歩的発言が多かった三笠宮崇仁(たかひと)親王の談話であろう。

この発言は、英国のエドワード8世の「王冠を賭けた恋」を下敷きにしている。エドワード8世は1936年、退位して、離婚経験がある米国人女性、ウォリス・シンプソンと結婚した。恋を優先した国王の選択は、戦前日本においても大きく報道された。新生日本でも、皇族の婚姻の自由が問題になると、三笠宮は訴えたかったのだろう。

『読売新聞』『朝日新聞』をきっかけに、皇太子妃をめぐる報道は過熱する。より自由に記事を書けたのは雑誌であった。

「全世界の注目! 皇太子様は結婚の御相手にどんな女性をお好みか?」(『スタイル』1953年2月号)、「皇太子は瓜実(うりざね)顔がお好き」(『人物往来』同年7月号)などの見出しが並ぶ。

定番は、候補とされた良家の娘たちの写真を並べるグラビアだった。いずれも旧華族の女性で、従来の通婚範囲内の選考が示唆された。