気配を察した第1候補

1955年春に妃選考が本格化するところに話を戻そう。

明仁皇太子はその翌年春、聴講生としての大学通学が終了する予定であり、皇族活動の本格化が考慮された。皇太子は21歳。この年齢からの妃選び始動は、戦前と比べるとかなり遅い。

実は、皇太子は大学二年時の欧米訪問のあと結核を患った。まずは療養が重要であり「そう御成婚を急がなくても」との考え方があった(「鈴木菊男回想」)。

最初の候補はすぐに浮上する。徳川御三卿(ごさんきょう)である田安(たやす)徳川家の長女(以下、徳川令嬢)であった。1955年5月17日、田島の日記に、初めて「徳川令嬢」が出てくる。彼女は、東京女子大学2年生であった。

10月9日、田島は小泉と会談した。小泉は「Count T そこまで来れば調査の上、よき時に覚おぼせば〔宇佐美〕長官の責任」とまで言った。Count とは伯爵のことであり、T伯爵の娘(徳川令嬢)を調査して宇佐美の責任で進めればいいという意味である(「田島日記」)。

ところが、この話は、直後に急にしぼんでしまう。宮内庁の動きに気付いた田安徳川家が急遽、娘の縁談話を進めてしまったためである。徳川令嬢の婚約は『毎日新聞』(1955年12月11日)にスクープされた。最初の候補は、気配を察知した相手方の婚約により消えた。