次々と消えていく候補者

続く3番目の候補が出現するのは、1957年秋だ。

田島、および東宮大夫鈴木の日記にはKとして記録される。10月21日、小泉邸に、選考チームが集まる。田島の日記には、「小泉、黒木は東宮〔明仁皇太子〕の御希望に副(そ)わんとK即決の様子。小生は元来Kよろしと思い、Oなどは余り賛成せざりし故ゆえ、K大いに賛す」と記される。小泉だけでなく、田島もKに大賛成していた。

Kが誰なのか、断定できないが、旧皇族の北白川肇子(きたしらかわはつこ。当時高校3年生)の可能性が高い。推測が正しいとすると、宮内庁は、良子女王を選んだ裕仁(ひろひと)皇太子(昭和天皇)妃選考のときと同じ「同等性の原則」路線に戻ったことになる。そして年末から年始にかけて、K家に意向が伝わった。

しかし、最終局面で、話は急転換する。1958年正月早々、Kの家族の男性(「鈴木菊男日記」では「K君」)が、Kの家系に色覚障碍(しょうがい)があり、結婚に問題があるとの見解を宮内庁に伝えたからだ。3番目の候補Kも消えた。

騒動のなか選考チームは短期間であるが、Hという4番目の候補を検討した。鈴木は1958年1月10日、Hの資料を宇佐美から入手する(「鈴木菊男日記」)。Kが難しくなった事態を受けて、すぐに動いたのだろう。

Hは、学習院大学教授林友春(はやしともはる)の長女である(当時高校3年生)。元宮内大臣牧野伸顕(故人)の曽孫であり、また元首相吉田茂から見ると妻の大姪(おおめい。姪の子のこと)であった。林家は旧伯爵家であったが、長州藩士の家柄であり、やはり大名家でもない。

重要だったのは、Hは明仁皇太子とテニスをする仲であることだ。Oと同様、「出会いと交流」路線から浮上した。ところが、林家は、やはり宮内庁の動きを察知して、Hの婚約を急遽決める。またも、候補は消えてしまう。