自由に論じられるようになった「皇室の恋」

一方、皇太子の恋愛の可能性を論じた記事も少なくない。『婦人生活』(1951年10月号)には、次の文章が見える。

『天皇家の恋愛-明治天皇から眞子内親王まで』(著:森暢平/中公新書)

「もしかしたら、私も未来の皇后陛下になれるかもしれない。結婚適齢期にある皆さんは、ふとこんな夢を抱くことが出来るほど、いまは新しい時代になっている。シンデレラの物語のように、心やさしいお嬢さんのところに、王子さまのお妃選びの幸運が訪れはしないかしら……」。

ドイツの公国の王子が、酒場の娘と恋に落ちる「アルト・ハイデルベルク物語」を引き合いに出す記事も多かった。ドイツ戯曲で、戦前に築地小劇場や宝塚少女歌劇で上演された人気作だ。皇室の恋の可能性を、かなり自由に論じられるようになったのである。

巷の話題を受け、明仁皇太子の結婚は国会でも議論になった。

自由党衆議院議員の原健三郎(はらけんざぶろう)は、予算委員会の席上、「8500万の全国民のなかからお選びになられる方が、優生学的に見ても、あるいは皇室の弥いや栄さかから考えても結構であろう」と発言した(1953年2月12日)。「新時代の皇太子妃は『平民』から」との期待と、それに対する懐疑のなかに、妃選考はあった。

なお、戦後に身分制は廃止されたが、平民の語は使われ続けた。これを言い換えたのが「民間」という言葉だが、平民の語が依然として親しまれていた。