軽井沢でテニスを鑑賞する明仁皇太子(現・明仁上皇)と正田美智子さん。1958年08月10日撮影(読売新聞社提供)
今では「一夫一婦制」のもと、子どもを家庭で養育する「近代家族」であることが、当たり前のように思われがちな天皇家。一方、毎日新聞社で皇室担当記者を務めた森暢平・成城大学文芸学部教授によると、多くの皇族たちが近代家族を目指し、その時代なりの恋をしてきたと言います。その意味では、恋愛から家族をつくったとされる明仁(あきひと)皇太子・美智子妃の存在が大きいが、二人が結ばれるまでの道のりはなかなか大変だったそうで――。

皇太子妃、最初の4候補

第125代天皇で現在上皇の明仁(あきひと)。正田美智子さんが皇太子妃に決まる以前、4人の別の候補がいた。彼女たちが詳しく語られる例は少ない。

美智子さんが皇太子妃と決した以上、前史を蒸し返しても意味がないと考えられた。皇室に失礼だ、という意識もあるだろう。だが、美智子さん以前の検討は重要である。宮内庁の考え方の変遷をたどれるためである。候補のなかには、決定寸前の女性もいた。

宮内庁は1950(昭和25)年度、明仁皇太子の妃についての検討を開始した。皇太子日記は高校2年生。田島の日記には「皇太子妃候補名簿の件」と出てくる(1951年2月19日条)。

日記はこの2年後(1953年8月24日条)、「北白川、徳川義寛(よしひろ)、島津忠承(ただつぐ)、島津久大(ひさなが)etc.」と具体的な名前を挙げた。

それぞれ、故北白川宮永久(ながひさ)王、旧男爵の徳川義寛、旧公爵の島津忠承、その弟の島津久大を指し、この4人の娘たちが、検討の俎上に載せられたことがわかる。

この時期の作業は、資料づくりの域を出なかった。準備段階に過ぎず、具体名が煮詰まったわけではない。妃選びが本格化するのは1955年春である。