第2候補は学友の妹

選考チームはめげなかった。

1956年、2人目の候補の検討を始める。明仁皇太子の学友(同級生)、大久保忠恒(おおくぼただつね)の妹であった。彼女はこのとき、聖心女子大学2年生。「田島日記」にはOとして登場する。

1956年夏、明仁皇太子は静養のため軽井沢に滞在していた。田島と小泉は、皇太子の常宿、千ヶ滝プリンスホテルに向かった。皇太子は仲間たちとテニスに興じ、そのなかにOがいたため、彼女を観察しようと考えたのである。

この結果を田島は「Gesicht(ゲズィヒト)中、その他も失望す」と書いた(「田島日記」8月23日条)。Gesichtとは、ドイツ語で顔のことで、容貌が期待外れで失望したという厳しい印象であった。しかし、その後、選考チームは、Oの話を進める方針で一致する。

初スキーへ旧鹿沢温泉に向かう18歳の明仁皇太子。東京・上野駅にて。1951年01月03日撮影(写真:読売新聞社提供)

大久保家は戦前、家格は子爵であった。同等性を子爵まで広げた戦前の通婚制限緩和路線の延長にも見えるが、大久保家はもともと幕府旗本の家柄であった(曽祖父の大久保一翁《いちおう》は、江戸開城に尽力するなど幕末史に登場する人物)。

その意味で、秩父宮妃の会津松平家、三笠宮妃の高木家と比べると見劣りがする。会津松平家は23万石の大名家、高木家も小さいとはいえ河内丹南(かわちたんなん)藩の旧藩主家である。Oの父親は同和鉱業重役であったが、次男(分家)であり、旧子爵家の跡取りでもない。

家柄以上に注目すべきは、自然な出会いと交流からの妃選びという新路線である。Оは明仁皇太子とテニスをする仲で、自然な交流があった。選考チームは、「出会いと交流」路線と呼ぶべき新たな方向を打ち出したのである。

宮内庁は時間を掛けてOの調査を進めた。そして、1957年4月8日、正式に縁談を申し入れる。大久保家を訪れた田島は、「経済上の心配無用」「皇室会議〔の〕手続ある故ゆえ、可か成なり早く」と決断を急かした(「田島日記」)。

ところが、大久保家は申し入れを断る。父親は、宮内庁に対し、光栄には思うが、辞退したいと告げた。「一家スキーにも行く。離れるのはいや」との理由だった(「田島日記」4月17日条)。皇室の自由のなさへの懸念である。婚約寸前だった第二の候補も消えた。