「出会いと交流」新路線

ここまで、美智子さんの出現前の4候補を見てきた。2番目のO、3番目のKのように決定まであとわずかな候補もいた。美智子さん以外の候補に決まる可能性も十分にあった。

重要な点は、「出会いと交流」を重視する新路線の出現である。明仁皇太子の周囲の女性から選ぼうという志向だった。新時代の皇室を期待する世論を意識した面はあるだろう。

この節の最後に、正田美智子さんの縁談についても触れておく。

美智子さんは1957年3月に大学を卒業した。それ以前から、若い男女の交流の場であった建築学者竹山謙三郎(たけやまけんざぶろう)が主催する「竹山パーティー」に参加しており、竹山によると、縁談(結婚申し込み)が多くあった(「正田美智子さんのこと」)。

学究タイプの男性が希望であったという。美智子さんの母冨美(ふみ)は、学者の生活は苦しいので、「有望な学者に嫁がせたい」と話していた(「世紀の生んだ才女美智子さん」)。

竹山パーティーで、男性とダンスする写真が、婚約発表時の雑誌に掲載されたこともある(たとえば『サンデー毎日』1958年12月7日号)。縁談話がある程度まで進んだこともあったが、希望に合う相手がおらず、時間が経っていたのが実情であった。

※本稿は、『天皇家の恋愛-明治天皇から眞子内親王まで』(中公新書)の一部を再編集したものです。


天皇家の恋愛-明治天皇から眞子内親王まで』(著:森暢平/中公新書)

明治天皇まで多妾が容認された天皇家は、いま一夫一婦制、子どもを家庭で養育する近代家族へと大きく変わった。これは、恋愛から家族をつくった戦後の明仁皇太子・美智子妃によるとされる。だが、それ以前から天皇家は、三代の皇后を始め多くの皇族たちが、近代家族を目指し、その時代なりの恋をしていた。本書は、明治以降、上皇夫妻や眞子内親王まで、天皇家150年に及ぶ歴史を、数々の恋愛から描き出す。