ビーチハウス「リビエラ」の完成

そんな空気を腹立たしく見ていた男がいた。鎌倉観光業界の実力者だった矢島義司郎(当時、日本観光施設協会理事長)である。自己資金で由比ケ浜の砂浜にビーチハウスを建て、リビエラと名付けた。
日本は相変わらず食糧難の時代である。クラブはできたが、そこで提供する飲み物や食べ物は自力で調達できなかった。矢島は米軍と相談し、ビールやコーラ、サンドイッチなどはすべて兵隊たちがPX(Post Exchange/米軍基地の売店)から持ち込み、演奏する楽団は日本人で組んで、入場料を取ろうということになった。

ところが、矢島はジャズのことはわからない。
「バンドのメンバーを急いで集めてくれないか」
話は再び、松谷に戻ってきた。

その頃、松谷は日本ビクターが編成した軽音楽やセミクラシックなどを演奏する「サロンオーケストラ」に入り、東京都内の米軍キャンプを回って日銭を稼いでいた。忙しかったが、住み慣れた鎌倉でジャズを演奏できるならこれに越したことはない。そう思って引き受けた。

しかし、わずか半年ほどの間に状況は一変していた。ジャズ・ミュージシャンはもとより、音楽学校を卒業した名の通ったクラシック奏者までが、すでに東京、横浜、横須賀などの米軍クラブに引き抜かれた後だった。とくにビッグバンドに欠かせない管楽器奏者は引っ張りだこで、サックス(サクソフォン)・セクションのうち、ソロを吹くことの少ない三番サックス、四番サックスなどは楽器を持って座っていれば給料がもらえたという逸話も残る。

親しい楽友たちに声をかけても、誰一人として応じてくれる仲間はいなかった。困り果てた松谷は、妻・芳江のいとこで、当時、法政大学の学生だった田中寛三に声をかけた。
「寛ちゃんは学生なんだから、太鼓くらい叩けるだろう」
無理やりドラムを担当させた。

その田中は鎌倉保育園で働いていた知り合いの沖本忠晴に目を付けた。沖本はクリスチャンで、幼少時から賛美歌を歌っていた経験があり、ほんの少々、オルガンも弾けるという噂だった。
「毎日オルガンを弾いているんだから楽譜は読めるはずだ。トロンボーンをやってくれ」と無茶を承知で頼み込んだ。