GHQの日本駐留が始まると、北海道から九州までの主要都市には約80の米軍基地が置かれ、在日米軍の人数は1946年にはすでに40万人を超えていた。東京、横浜、横須賀などのキャンプ地では、被災を免れた建物や施設が米軍に接収され、将校用、下士官用、黒人兵士用などに分かれた多くのクラブが作られた。鎌倉で真っ先に接収されたのが「鎌倉海浜ホテル」(鎌倉市由比ガ浜四丁目)だった。

日光の金谷ホテル、箱根の富士屋ホテルと並んで、海外にもその名を知られた名門ホテルである。大正ロマンの雰囲気を残し、戦前からハワイアンのショーやダンスパーティーが開かれていた。多くの文化人に愛された鎌倉のモダニズムを代表する施設だった。

終戦から数ヵ月たったある日。
「海浜ホテルに米軍専用のクラブを作りたい。ついてはジャズを演奏できるバンドのメンバーを集めてほしい」
米軍の将校から松谷に楽団編成の依頼が来た。

松谷穣(まつや みのる)1910年1月2日、兵庫県神戸市生まれ、鎌倉で育つ。東京音楽学校(現・東京芸術大学)在学時、ウクライナ出身のピアニスト・レオ・シロタに師事する。戦後、米軍のキャンプでビッグバンドのバンマスとして活躍、多くのジャズ・ボーカリストを育てた。1995年没

松谷は、鎌倉では数少ないジャズを弾けるピアニストとして知られていた。戦争中は「敵性音楽禁止令」が敷かれて、ジャズを聴くことも演奏することもできなかった。これからは心置きなくジャズを演奏できるというのである。断る理由などなかった。

すぐにバンドのメンバー集めに奔走した。クラシックやジャズの音楽仲間が少しずつ集まった。その最中、年も押し詰まった12月末の事だった。海浜ホテルで働いていた一人の米軍兵士がストーブを倒して火災を起こした。鎌倉が誇りにしていた名門ホテルはあっけなく焼失し、松谷の楽団作りも無為に終わったのである。

その後、横須賀の海軍基地や陸軍ヘリコプター部隊の兵隊たちが鎌倉に来ても、遊ぶ場所がないというので評判が悪い。横浜に近い大船には中規模のキャンプがあり、パーティーが開かれるという情報が入ると、鎌倉界隈の町内会で女性を募集して、大型の軍用トラックで会場に送り込んだ。食糧不足に悩む敗戦国の女性たちが、飲食は自由、女性にやさしい米兵とダンスが踊れるとあって喜んで出かけたのだった。