米軍の極東向けラジオ放送でジャズを研究

一人また一人とメンバーを増やしたが、まだ足りない。ジャズにうるさい米軍兵士の前に立って演奏する以上、多少は腕の立つ人材が必要だった。行き詰まった松谷は、旧制逗子開成中学で吹奏楽部を指導していた中村政雄に助けを求めた。中村は海軍軍楽隊の出身で、退任後、開成の音楽教師になったエリートである。指導者としての実力も確かだったが、人の面倒見のいいことで有名だった。吹奏楽部の教え子を探し出しては次々とメンバーに引っ張り込んでくれた。こうして松谷のもとに、ジャズは知らないが楽器の音はそこそこ出せるというアマチュア・ミュージシャンが集まったのである。

メンバーは松谷の自宅で窓を閉め切って練習した。田中は生まれて初めてドラムのスティックを握り、沖本は管体をスライドさせて音程をとるトロンボーンにてこずった。戦後の遊びのない時代である。多少音は外れても、音楽の好きな仲間が集まって演奏するアンサンブルは楽しかった。問題は腹が減ることで、いつも、ふかした芋をかじっては空腹を乗り切った。

松谷が選んだ演奏曲は、1930年代から40年代にかけて米国で大流行していたスイング・ジャズだった。米兵が喜びそうなベニー・グッドマンやフレッチャー・ヘンダーソンやグレン・ミラーなどの曲に取り組んだ。バンドは二流でも、演奏する曲はそうそうたるダンスナンバーだった。

バンマスの松谷は、ジャズの最新情報を仕入れるため、土曜日の夜になるとラジオにかじりついてFEN(Far East Network/米軍の極東向けラジオ放送)を聴いた。ラッキーストライクが提供する「全米ヒットチャート」が待ち遠しかった。アメリカで大流行していたドリス・デイの歌う『センチメンタル・ジャーニー』に魅了された。当時、兵隊たちに圧倒的に人気があったのは「ブギウギ」と呼ばれるリズムだったが、松谷以外のメンバーは誰一人聴いたことがない。楽譜も手に入らない。練習は困難を極めたのである。