リビエラを巡るすばらしい仲間たち
米軍兵士たちはバンマスに特別な敬意を払ってくれた。
曲をリクエストするのに、必ず「マエストロ・プリーズ」と声をかけてくれた。
松谷はこれがうれしかった。なぜ、こんな気持ちのいい奴らと、つい昨日までお互いに殺し合っていたのか不思議な気がした。手元に楽譜がなかったので、彼らのリクエストに応えることはほとんどできなかったが、将校の中にジャズ・ピアニストがいて、見るに見かねて楽譜を提供してくれた。
松谷は戦前の教育を受けたので、少々、英語が話せた。逆に若い人たちが話せなかった。戦争が始まるとすぐに、NHKのラジオ第二放送の「基礎英語」も中断され、辞書を焼くなど、英語を排斥する運動が高まったので無理はなかった。
ある時、若い女性がリクエストを伝えに来た。
「〝洗面所〟を演奏してくれって言ってるよ」
「何それ」
悪い冗談かと思ったが、『センチメンタル・ジャーニー』のことだった。
やがて「リビエラのバンドはなかなかいい」という評判が日本人の間に伝わった。ジャズとダンスの好きな女性たちが集まるようになった。
英語の達者な女子学生がリビエラに出入りしていた。名前は曲直瀬(まなせ)美佐という。日本女子大学の学生だったが、米軍キャンプで大学生バンドの通訳とマネージャーをして稼いでいた。この娘こそ、後に「渡辺プロダクション」を設立して多くの歌手を育てた、若き日の渡辺美佐だった。
学生時代、下宿の部屋でFEN放送から流れてくるジャズの甘美なサウンドに酔いしれ、ビング・クロスビーやフランク・シナトラの歌声を聴いて「自分一人に囁きかけている」と信じ込むほどジャズにのめりこんだ。若くして米軍キャンプを渡り歩くうちに、慶応などの四つの学生バンドを手際よく切り回してキャンプに送り込むようになった。好きなジャズが聴けて収入にもなる。そんなマネージャーの経験を積んで、やがてショービジネスの可能性に目覚めていくのである。