米軍用キャバレー「グランド・シマ」が開業した

その後もたびたび、横浜市内のキャンプでスタグ・ナイトに遭遇した。密輸入の、画面に雨が降っているような古くていかがわしいフィルムを写した後に女性が踊るという念の入れようだった。こんな行事が堂々と軍隊の兵舎の中で催されるという米軍の大らかさに驚き呆れてしまった。

「拾い」の仕事には毎日ありつける訳ではない。収入も少なく、八名の楽団員を抱えたバンマスのふところは火の車だった。借金を重ねながらメンバーに給料を支払うという苦労が続いた。

しかし、朝鮮戦争が始まってしばらくたつと、戦況が米軍の優位に動き出した。兵士の休養や武器弾薬の補給のために、横須賀港に入る艦船の数が増えてきた。航空母艦が一隻入港すると巡洋艦が同時に何隻もついてくるため、街は数千人の水兵で溢れかえった。

商機到来と読んだ横須賀の米穀商・村瀬俊一は、国道16号線沿いの米ガ浜に米軍用キャバレー「グランド・シマ」を開業した。大きな倉庫を改装した数百人も収容できる大ホールだった。松谷のバンドも、そこで定職にありつくことができた。

真夏のことだった。大艦隊が入港して、グランド・シマの大ホールに水兵が溢れた。青いストライプの入った真っ白なセーラー服が汗でびっしょり濡れていた。百人近い女性ダンサーが水兵たちと踊っていたが、踊るというより、ただ体を合わせて揺れているだけだった。演奏は二楽団交代制とはいえ、昼夜連続の仕事で、流れる汗が乾く暇もなかった。松谷の体重はどんどん落ちていった。