ジーン・クルーパの来日


1曲踊るごとに1枚の有料チケットをもらうのが踊り子たちの収入になった。彼女らの要望に添うのが大変で、「曲はできるだけ短くして」「曲と曲の合間を2、3秒以内にして」などと言う。楽譜をめくっているヒマもなかった。1週間に1回、踊り子総会が開かれ、松谷も出席させられた。総会のテーマはいつも演奏時間を短く、曲間を詰めることだった。バンドの人気は演奏の内容よりも、その技術で決まった。文句を言える雰囲気ではない。楽団員も踊り子たちも、お互いに今日を生きることで精いっぱいだったのである。

横浜の野毛に「横浜国際劇場」という映画館があった。現在はJRAのウインズ横浜になっている所である。ここに、ジーン・クルーパのバンドがやってきた。少し前まで、ベニー・グッドマン楽団に在籍していた人気絶頂のドラマーだった。メンバーは、ジーン・クルーパのドラムス、チャーリー・ベンチュラのアルトサックスとテナーサックス、バスサックス、テディ・ナポレオンのピアノというトリオだった。

一行は、1952年4月19日、パン・アメリカン航空機で羽田空港に着いた。アメリカの本格的なジャズ・ミュージシャンの初来日とあって、多くのジャズ・ファンと、クルーパを信奉するドラマーのジョージ川口やサックス奏者の松本伸らが出迎えた。その中に、シカゴでクルーパと旧知の間柄だったという横浜国際劇場のマネージャー(日系二世)がいた。商売熱心な男で、一行を喜ばせるために娘には和服を、息子には国際劇場の名前が書かれたハッピを着せて歓迎した。それだけではない。その場で「野毛でも公演してほしい」と頼み込み、OKをとってしまったのである。

一行は翌日、東京日劇の舞台に上がり、3回のステージをこなして1万人のファンを熱狂させた。その翌日、野毛にやってきた。急な決定だったので何の宣伝もしていない。あちこちの電柱に手書きのポスターが貼ってあり、当日の神奈川新聞の朝刊に小さな広告が出たきりである。当時、映画が3本立てで100円のところ、クルーパ公演は一般300円、学生200円と高かった。関係者全員、客は来るのかと心配したが、超満員の大盛況となった。