クルーパ一行は日劇と野毛の劇場公演が終わると、慰問演奏で横須賀のグランド・シマにやってきた。その日、松谷は出番だった。生まれて初めて本場のジャズメンの演奏を聴ける幸運を喜んだ。

松谷は映画が大好きだった。子どものころから映画を観て育った。戦後、最初に見た映画は、横浜国際劇場で封切られた「グレン・ミラー物語」だった。主演はジェームズ・スチュアート。相手役はジューン・アリスンだった。『ムーンライト・セレナーデ』が画面から流れ始めると、松谷は涙が止まらなくなった。戦後すぐ、鎌倉市由比ガ浜のリビエラで、生まれて初めてバンドマスターになり、「ムーンライト・セレネーダーズ」という同名のバンドを結成したころを思い出して、胸がいっぱいになったのである。

 

松谷のバンマス稼業はまだまだ続く。

グランド・シマの重労働にも疲れ果て、横須賀海軍基地正門に近い「ヨコスカ・ビヤホール」(通称・横ビヤ)に移った。3階建ての元食堂だった。終戦の年にいち早く米軍兵相手の酒類提供の許認可を受けたクラブ第1号店だった。ここでも連日、スタグ・ナイトが演じられた。

当時、ダンスホールのバンドマンの給料は悪くなかった。昼は家で寝て過ごし、夜の部に働くだけでも、普通の会社員の二倍の収入があるといわれた。ところが、バンド同士の競争が激しかった。ダンスホール側との契約は半年ごとに更改され、人気や実力のあるバンドは仕事が切れることはなかったが、更改時の選考に漏れたバンドは半年間、失業という憂き目にあうのだった。

素人楽団からスタートした「スイング・トーチャーズ」の評価も少しずつ高くなり、1952年、とうとう米軍基地中、世界最大規模といわれた横須賀「EMクラブ」(Enlisted Man Club)との契約に成功した。松谷の苦労がようやく報われた。そしてここが、松谷のバンマス稼業としては最長、最後の思い出の場所になったのである。