三島さんとの出会いが大きな転機に
笈田さんの曽祖父は文楽の三味線弾きで、祖母もまた芸ごとが好き。神戸生まれの関西育ちゆえに、大蔵流の狂言を習いごとにするような少年だった。
彼が文学座に入って二本目の出演だというミュッセの『マリアンヌの気紛れ』(1958年)を私は観ている。美しい人妻のマリアンヌが加藤治子、美男のオクターヴが仲谷昇、笈田さんはマリアンヌに焦がれる悲劇の青年セリオ。
その二年後、笈田さんはオスカー・ワイルドの『サロメ』に出演。ここで演出を担当する三島由紀夫に出会う。これが死というものと真剣に向き合うことになる第一の転機ではないだろうか。
──はい、三島さんとの出会いは大きな転機だと思いますね。先生のような本当の天才に出会ったことで、自惚れや妄想がなくなって、身のほどを知って自分の歩む道を見つけられた。
まぁ、僕の自殺願望は14、5歳のころからあって、死にたい死にたいと思ってましたよ。つまりこれおしゃれとして言ってるだけで、そうやって本当に死んだ者はあまりいない。でも三島先生が「俺は死ぬ」とおっしゃったとき、あ、この方は本当に死ぬんだな、と思いました。
『サロメ』で僕は近衛兵の若い軍長、ナラボト役。サロメ(岸田今日子)の誘惑に負けて、預言者ヨハネ(仲谷昇)が幽閉されている地下牢のふたをあけ、その責任をとって自決する役でした。
ナラボトは上半身かなり裸を見せるから筋肉を鍛えなきゃ、と三島さんに言われて、一緒にボディビルに通わされたんです。
僕はそのころ三島さんとちょっと似てる、と言われてて。この派手に自決する役を僕にやらせてみて、観察なさってたんですね。もっと派手に血を出せ、って小道具さんに注文出してましたからね。
次にはご自分が『憂国』という映画で青年将校の切腹を克明に演じて、その次が本番だったんだろう、と思います。
先生が45歳で自決なさったのを知るのは、僕が37のとき。パリのピーター・ブルックの家に居候してたときでした。このときにはまだ僕の自殺願望が断ち切れてなかったですね。