生涯の師、ピーター・ブルックとの出会い
第二の転機は笈田さんの演劇人生、生涯の師ともなるピーター・ブルックとの出会いではないだろうか。
前に笈田さんに聞いた話では、ある日、文学座の長岡輝子さんから電話があった。フランスのジャン・ルイ・バローが毎年夏に開いている演劇フェスティバルで、今回はイギリスのピーター・ブルックを招いて『テンペスト』の実験劇をやる。ついては日本の能狂言の役者を招きたいが、みんな仕事が詰まっている。「あなた、どう?」となったとか。少年時代の稽古ごとがここで役に立ってくる。
──その『テンペスト』は、フランスとアメリカとイギリスと日本人の俳優でやりたいということで、僕の役は風の精でした。
ところがそのときフランスは五月革命で、みんながストをやっていて、稽古は進んでいたんだけど上演に至らなかった。
それで日本へ帰ってきたら、二年後にピーター・ブルックから手紙が来て、色んな国の演劇人を集めて演劇研究をするグループを作る、というのでパリに戻ったわけなんです。ロンドンは芝居が盛んなところだけど、そういう新しい研究に対してはあまりお金を出さない。でもフランスには新しい試みを援助する雰囲気があるので、演劇研究のセンターをフランスに作ったわけなんです。
パリには外国人の芸術家が多いですよね。ピカソもシャガールもみんな外国人。自国から離れることによって、創作のエネルギーが花開く。芭蕉さんも旅することで『奥の細道』という名作が生まれた。
僕も日本の新劇村みたいなところを離れることによって、精神の自由が求められたわけなんです。おこがましい話だけどね。