「ピーター・ブルックに出会ったことで、クリエーションとはどういうものか、過去にとらわれず、絶えず好奇心をもって高みをめざすことを学びました。」(撮影:岡本隆史)
演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続ける俳優たち。その人生に訪れた「3つの転機」とは――。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が訊く。第3回は俳優で演出家の笈田ヨシさんです(撮影:岡本隆史)

<前編よりつづく

「ミシマがハラキリをやったよ」

笈田さんが二度目にピーター・ブルックのもとへ旅立ったのは、1970年、三島事件の起きる約半年前の6月のことだった。そのことを三島に報告に行くと、乃木坂の高級ステーキ店でご馳走してくれて、「誰にも言わずにそっと出発しろよ、嫉妬されると怖いからな。俺はもう終わってしまったから構わないんだが」と言われる。

出発の前日、三島夫人から多額の餞別と、麻の甚兵衛と、毛筆の手紙が届けられた。文面には「英京 龍動(ロンドン)に於ても、この甚兵ヱを着用して上方風日本精神を忘るること勿れ。笈田君、三島由紀夫」とあった。

──そうです。それで11月25日の朝。パリのリュクサンブール公園近くのピーター・ブルックの家の最上階、六階の屋根裏部屋から降りて行くと、ブルックが新聞を読んでて、ミシマがハラキリをやったよ、と言うんです。

僕は予測はしてましたが衝撃を受けました。人間の唯一の自由は自分の命を絶つことぐらいだ、とよく言っておられましたけど、きっと、ご自分の芸術の完成のためには肉体を消してしまわないと、と思われたんでしょうね。

現在、僕のアパルトマンはバスティーユに近いパリの東側にあります。西側はお金持ちの住む所なんですね。ロンドンも東はイーストエンドと言って庶民の街だし、ニューヨークでもグリニッジ・ヴィレッジとか高級な所は西側にある。東京も山の手は西側で、東側には浅草とか吉原があって、いわゆる庶民が住むところですよね。

ブルック先生も僕の近くに住んでて、東側です。現在96歳ですがお元気で、「ヨシ、それは違う」なんて、今も言っていただける先生の存在って、とても幸せなことだと思っています。