イタリア家族の仮面が剝がれ落ち

講演会でもトークショーでも、ぜひヤマザキさんの暮らすイタリアの話をして欲しいとリクエストを受けることが多い。若い時からフィレンツェという歴史ある美しい街で過ごし、イタリア人の夫がいて、その家族がネタになったエッセイや漫画を出版しているという関係上、イタリアに憧れを感じている日本の人たちは、私に楽しいイタリア話を期待しているのだ。

私もなるべく皆さんの期待に応えるよう、どんなにつらい経験も面白おかしく脚色をして話すようにしているし、何はともあれイタリアは私を精神面で成長させてくれた国ではあるわけで、たとえダークな側面を知ってはいても、できる限り良い印象を与える言葉にかえて伝えるようにしている。

ところがここ数年、コメントや解説を頼まれる日本公開前のイタリア映画のほとんどが、世界中の人たちが思い描いているような家族愛に満ちた人間味あふれる生活大国イタリア、というイメージを覆すような深刻な内容のものばかりなのである。中でも目立つのは、家族関係の崩壊や一家離散をテーマにしたものだ。配給会社にしてみれば、そんな重たい内容の映画作品を、一体どうやったら楽しいイタリアのイメージが定着している人々に見てもらえるのか、そのアプローチに戸惑ってしまうのだろう。

一番最近見たイタリア映画では、陽気な街のイメージのあるナポリのそばにある、風光明媚なイスキア島に集まった大家族が、船の欠航で帰れなくなり、3日間同じ場所で過ごすことになる。そのうち皆が被っていた明るく健やかな家族の仮面ががれ落ち、日々の生活で抱え込んでいるストレスや問題のぶつけ合いとなって、すったもんだの大騒ぎになるという、凄まじい内容のものだった。

私はこの映画を見ているうちに、登場人物たちのひとりひとりが、漏れなくイタリア人夫の家族の誰かしらに当てはまることに気がついて、何ともやり場のない、苦々しい気持ちに陥った。うちの実家でも、集まった親族が表層的な盛り上がりを保てるのはせいぜい4時間くらいだろう。それ以上になると、なんとも妙な雰囲気になっていく。この映画は、家族とは選り好みできない人間同士の共同体だということを、気付かせてくれる作品なのである。

その半面、家族間の軋轢に泣いて喚いてエネルギーを消耗しても、招集が掛かればなぜか嫌々でも集まるというのがイタリア家族である。家族なんてしょせんそんなもの、理想や夢想通りにはいかないけれど、だからといって避けてやり過ごせる存在ではない、ということを皆認識しているのである。この親族大集合の映画はそんなイタリア家族の心の荒みをあからさまに表現しているが、人生なんてドラマチックでなんぼと捉えている国民だからこそ描くことのできる、虚栄も偽りもない家族のあり方ともいえる。

とりあえず、愛して歌って食べて、という月並みなイメージが払拭される時が、こうした映画作品の配給によって訪れていることだけは間違いない。