川村 ロサンゼルスと東京、リモートで何度も対話を重ねました。まず興味深かったのは、近藤さんがこれまで1000以上の部屋を片づけているという事実です。そこには数千人分の人生、1000家族分の記憶があるわけですよね。片づけの現場では、フィクションでは想像できないようなエピソードもたくさんあって。

近藤 そうなんです。

川村 だから、この小説の大部分は、お聞きした1000の部屋のエピソードを、パッチワークのようにつなぎ合わせてできているんです。

近藤 物語には、私がこれまで経験してきたことの断片はもちろん入っているのですが、登場する人は新しいキャラクターで、一人ひとりが、そこでたしかに生きている「その人」なんですね。私が「こういうことがあって」と事実を話しただけのことが、片づけを軸に深みのあるストーリーに生まれ変わり、登場人物の歩んできた人生まで、すべて見えてくる。物語の力を感じました。

 

自分の人生を見直すために

川村 対話を重ねながら、近藤さんの「言葉」にも興味をもちました。たとえば、「買ってきた洋服は、すぐに値札を切ってくださいね」とアドバイスする。「お店とつながっている《へその緒》を切って、《うちの子》にするんですよ」と。

近藤 値札があると、商品のままのようでよそよそしい。それが、着ないまま隅に押しやられて、ということにもつながるのです。

川村 ああ、こういう言葉で納得させるんだな、と思いました。そういう近藤さんならではのレトリックがたくさんあるのです。また、近藤さんはモノの声が聞こえるんですよね。

近藤 片づけの現場ではそうです。具体的にどうとかは言えないですけれど。

川村 そこは物語をつくるときに想像力を刺激されて楽しかった部分です。たとえば「本は歌っている」と近藤さんは言う。じゃあ、ガーデニングの本は軽やかなボサノヴァかな。詩集はシャンソン、あるいはラップだろう、とイメージするわけです。
キッチンを片づけていて、豆板醬と和風だしの素、そのそばにコンビーフの缶があったら、どういう声が聞こえるだろうか。クローゼットで買ったきり着てもらえないシャツは文句を言っているんじゃないか、とか。

近藤 はい……。(笑)