日本語の歌詞がうまく歌えないことに気づく
ポニー教室と日劇で求められるボーカル指導には、米軍キャンプで十数年苦労して身に着けてきた英語の歌唱力が、あまり役に立たなかった。日本の音楽市場では、英語より日本語に訳された歌詞、あるいは国産の曲の方が圧倒的に流通価値が高かった。その日本語の歌詞がうまく歌えないことに気がついたのである。
松谷はこう考えた。
歌というものは、意味を持った歌詞に旋律がつけられている以上、それを聞いて楽しむ人には母国語の方がわかりやすいのは当然だ。おかしなことに、それまでずっと、日夜、ジャズを英語で歌うことに苦心してきた結果、日本語の歌詞の意味が素直に語れなくなり、発声と発音の結びつきが悪くなってしまったのである。
この問題は、実は一朝一夕に語りつくせないほど根が深い。悩んだ結果、歌や音楽は、その国の話し言葉との深い関係で成り立っていて、それこそが最も大切なことと思えるようになった。当時、接していた若い生徒たちが、日常会話の延長のように、自然な発声で歌うことから学んだ結論だった。
1963年、ポニー教室は、芸能界で驚異的に力を伸ばしていた渡辺プロダクション(通称ナベプロ)に吸収され、「東京音楽学院」に名前を変えた。新人発掘と育成を兼ねた機関で、やがて全国展開を図り大躍進する。松谷はそこで、引き続き新人たちの声楽指導にあたった。学院長は、かつて、リビエラをはじめ米軍キャンプを巡っていた渡辺美佐だった。松谷の人生は、一つの縁が時を経て再び結ばれるという、不思議な縁を繰り返すのである。
東京音楽学院では、入学試験の伴奏を担当して、2日間にわたってピアノを弾いた。個人レッスンは何人かの先生で持ち回りだった。松谷がレッスンした生徒は布施明、太田裕美、辺見マリ、平山美紀、トワエモア、ジュンとネネなど、時を経ずしてスターの座に上り詰めたキラ星のような歌手たちだった。
学院は優秀な生徒を選抜して「スクールメイツ」というグループを作っていた。その中からさらに三人の少女を選抜してアイドル・グループを結成することになった。