戦中戦後、日本のジャズの創成期に深く関わり、後進を育てたジャズ・ピアニストがいる。松谷穣(まつやみのる)だ。1910年に神戸に生まれ、藤山一郎から山口百恵まで、時代を代表する多くの音楽家、歌手、ジャズ・ミュージシャンと交流した半生は、個人史でありながら時代の記録でもある。2023年に完成する「ジャズ・ミュージアムちぐさ」館長であり、「ジャズ喫茶ちぐさ」理事、横浜ジャズ協会会員の筒井之隆氏に、松谷穣について寄稿いただいた。(写真提供◎松谷冬太氏 以下すべて)
人生の転機
終戦後、松谷穣はバンマスとして米軍クラブを回る演奏活動に忙しかった。
当時、ダンスホールのバンドマンの給料は悪くなかった。昼は家で寝て過ごし、夜の部に働くだけでも、普通の会社員の二倍の収入があるといわれた。ところが、バンド同士の競争が激しかった。ダンスホール側との契約は半年ごとに更改され、人気や実力のあるバンドは仕事が切れることはなかったが、更改時の選考に漏れたバンドは半年間、失業という憂き目にあうのである。
素人楽団からスタートした松谷が率いるビッグバンド「スイング・トーチャーズ」の評価も少しずつ高くなり、1952年、とうとう米軍基地中、世界最大規模といわれた横須賀「EMクラブ」(Enlisted Man Club)との契約に成功した。松谷の苦労がようやく報われた。そしてここが、松谷のバンマス稼業としては最長、最後の思い出の場所になったのである。
横須賀EMクラブで働いて7年以上の月日が過ぎた。
ある日突然、やり手の支配人に呼び出された。何の予告もなく、クビを宣告された。財政緊縮のためというのが理由だった。松谷自身も、若い楽員を集めてバンマス稼業を始めたが、経営面は全く失敗で、相当の借金を残していた。数日間考えた末、これを機にバンマス稼業から足を洗うことにした。
突然の解雇通告はショックだった。振り返ると、大学を出て、音楽を職業にして20年以上たった。年齢もいつしか50歳を過ぎていた。その間、バンド活動の宿命で収入の増減が激しく、不安定な生活が続いた。EMクラブでの7年間は比較的安定していただけに、前途に不安が募った。折しも、お茶の水の東京藝術大学音楽学部付属高校に在籍していた一人息子の翠(みどり)が大学受験を目前に控えていた。知らず知らず、松谷も人生の転機を迎えていたのである。
長い間世話になった楽団員に形だけの退職金を支払い、バンドをたたんだ。形として残ったのは数百曲にもなる楽譜の山だった。コピーなどない時代、そのほとんどが汗のしみ込んだ手書き譜面だった。一枚一枚のパート譜面を見ていると、一緒に演奏してくれた仲間の顔が、次から次と浮かんできた。リビエラ時代からトロンボーンを吹いた沖本忠晴はすでにバンドを離れ、映画音楽の世界にあこがれて日本ヘラルド映画に入り、輸入、配給の仕事についていた。田中寛三はバンドの創設時からドラマーとして最後まで松谷と行動を共にしたが、解散後は、自ら事務所を立ち上げて音楽マネジメントの世界に入っていった。
松谷は長谷の自宅に落ち着いた。
心なしか訪れる人も少なくなり、しばらく、ピアノに触る気持ちにはならなかった。さて、これからどうするか。そんなことを考えていた矢先に、当時「ブルーコーツ」を率いて活躍中の旧友・小島正雄から連絡があった。
サックス奏者の馬渡誠一(注1)と新人歌手を養成するボーカル教室を開くから手伝えという。浜松町駅の近く、芝大門の小さなビルに「ポニー教室」が開校されることになった。ポニーの名は、小島と馬渡の頭文字をとって付けたという。どうやら、突然米軍クラブに姿を見せなくなった松谷のことを気にしてくれたようだった。