ある日レッスン室に現れた幼い少女

選ばれたのは、伊藤蘭、藤村美樹、田中好子の3人で、グループ名は「キャンディーズ」と名づけられた。その合同レッスンを担当した松谷は、「ミキはド、スーはミ、ランはソ」と和音の基本から歌わせた。デビューするや、『年下の男の子』『春一番』『微笑がえし』など立て続けにヒットさせて空前の人気グループになった。わずか4年半ほどの活動の後、流行語になった「普通の女の子に戻りたい!」と叫んで解散した。お別れコンサートに招待された松谷は、後楽園球場を埋めた5万5千人の大観衆に恐怖さえ覚えたという。3人からもらった「松谷先生へ♡」と寄せ書きしたサイン入り色紙は、松谷の秘かな宝物になった。

「キャンディーズ」から贈られたサイン入り色紙

ある日、東京音楽学院の地階にある広いレッスン室に入っていくと、グランドピアノの側に幼い少女が一人で立っていた。小柄で細く、地味な雰囲気の女の子だった。ただ、眼に特徴があった。切れ長の目で、意志の強さを感じさせた。自己紹介をさせると、萩本欽一が司会をする歌手オーディション番組「スター誕生」(日本テレビ)の予選を通過したので、3ヵ月間の個人レッスンに来たという。そんないきさつを、中学生とは思えないはっきりした口調で話した。持参したレッスン曲は牧葉ユミの『回転木馬』だった。歌わせてみると素直で、ほとんど気になるところのない歌唱力だった。

最終レッスンは12月だった。

「大みそかに決戦に出ますから観てください」と言い、丁寧におじぎをして教室から出ていった。それ以後会ったことはない。レッスンを受けた生徒が署名するノートに「山口百恵」と書き残されていた。

決戦当日、『回転木馬』を歌った百恵に対し、当日集まった芸能プロダクションのスカウトたちは、全員が彼女を指名入札し、最終的にホリプロに所属することが決まった。

しばらくして、ホリプロの年間売り上げの中で、まだ新人だった百恵一人の売り上げが1億円を超すという記事を読んだ。

彼女は、レコード1枚の売り上げから作詞、作曲、編曲者に印税が支払われるように、歌手の育成にあたった教師にも同様の仕組みがあってよいはずだという意見を述べていた。作品に名前が残ることのない無名の音楽教師にとっては、こんな有難い言葉はなかった。実現するには無理な話だったが、百恵のやさしい気持ちを知ってうれしかった。


(注1)馬渡誠一(まわたりせいいち)/1914~1994、サクソフォン奏者、映画音楽の作曲家。慶應義塾大学在学中から学生バンドで演奏し、戦後、スイング・オルフェアンズに入団し横浜の米軍クラブ「サクラポート」でプロ・デビュー。一九四七年、「ブルーコーツ」結成メンバーの一人。同年、「スヰング・ジャーナル」創刊時の発起人となり、馬場正治のペンネームでビバップ理論を執筆している。


鎌倉FM「世界はジャズを求めている」特別番組編
11月10日(木)14時オンエア!

ご視聴はこちらから→『鎌倉ジャズ物語

出演:筒井之隆、松谷冬太(ヴォーカリスト)
聞き手:村井康司(音楽評論家・『世界はジャズを求めてる』パーソナリティ)