石原プロは26歳くらいで出ました。そもそもあそこは芸能プロダクションではなく、映画制作会社なんですよ。石原裕次郎に夢を託した人が集まって、裕さんと一緒に映画を作るために集まっている。映画を作っている時以外では、自分の道は自分で切り拓かなくてはいけなかったんです。

実家を出たのもそれくらいの年でした。当時付き合っていた彼女が、引っ越しするのを見て。その人は地方から出てきて一人暮らしをしていたんだけど、女の人が一人でがんばって生きているのに、俺が実家にいるというのはおかしいんじゃないかと思ったんです。まあ俺は、その年までそんなことに気がつかないようなヤツなのよ。(笑)

石原プロを出て、今いる事務所に入りました。編集者で石原慎太郎番だった三原栄子さんという人が、自分で編集事務所をやっていてね。僕も子どもの頃から知っている人で、そうだ、栄子ちゃんに頼もうと。小さなプロダクションだったから、ドラマのクレジットでプロデューサーの名前を見て、手紙を書いて会いに行ったりしていました。

その頃、バラエティー番組に俳優が出始めた時期だったんです。ドラマもバラエティーも手がけているプロデューサーに会って出たのが、『夢で逢えたら』という番組。ダウンタウンやウッチャンナンチャンがやっていた。

当時のフジテレビは「楽しくなければテレビじゃない」を合言葉に、ハチャメチャなことをやっていましたね。映画の現場はシーンとしているなかで撮っていくものだったから、こういう楽しい作り方があるんだって目から鱗だった。その後、ウッチャンナンチャンのバラエティーにレギュラーで出るようになったんです。

バラエティーって、セリフはないけどドラマなんですよ。みんなで球を蹴り合う。初めて出演する人にはちゃんとパスを出すんです。要領がいいとすぐパーンと蹴り返せるけど、ダメだったら、もう1回コロコロッと出してくれる。うまくいってゴールが続くと、「今日面白かったよね。まさかあっちに話が転がっていくと思わなかった」みたいな、現場の充実感がある。そういう物作りがすごく面白くてね。