貧困から脱せないのは自己責任なのか

社会に出た時点で、何百万円もの奨学金の返済を抱えている人、実家を援助しなければならない人、虐待による後遺症を抱えている人というように、生まれながらのマイナスを必死に埋め続けなければならない人がいる。

その一方で、親が学費を払い、仕送りを受け、社会に出てもいざとなったら頼れる実家があるというような、ゼロベース、またはアドバンテージのある状態から人生を積み上げていける人もいる。

そもそも背負っているもの、スタートラインがあまりにも違うという現実があるなかで、社会に出ても貧困から脱せずにいると、「努力が足りない」「もっとうまく立ち回ればいい」といった、《自己責任論》をぶつけられてしまうのだ。

受け継いだ負の遺産は、長期にわたって当事者の人生につきまとう。心身のバランスを崩すことも多く、その沼から抜け出すのは容易ではない。衣食住や教育、医療といった生活の基盤となる部分に必要なお金すら確保できず、何かあればいとも簡単に人生が破綻してしまう。そんな不安定な状況は親から子へと受け継がれ、脱出は難しい。

現状、そういった人たちが、生活を立て直していくための制度があまりにも不足していると感じる。親の所得にかかわらず、教育の機会の平等が保障されること、適切な医療に繫がること、安定した住まいを確保すること。これらは憲法で保障された「健康で文化的な最低限度の生活」を送るために、欠かせないものであるはずだ。

生い立ちは選べない。されど、そのマイナスを社会が埋めることはできるはずだ。