認知症を他人事と思っている父
事故の数年前から私は、携帯電話に知らない着信があると、その度に「父が事故を起こしたのでは?」と、胸がざわざわしていた。
母が亡くなってから40年近く、父が一人で暮らしてこられたのは、車で気軽にスーパーに行けて、食料を調達できていたからだ。札幌市内に住んでいるのだが、地下鉄は通っていない地域だし、バスは一時間に一本しかない。車があったから父の生活は成り立っていたのは確かだ。
「車が廃車になったなら、新しい車を買えばいい」と考えている父。
運転することは年齢的に決して許されないと私は諭した。
その度に父は、人を轢いたら大変なことになるとか、晩節を汚せないだとか、さもわかったように返事をする。たぶんそれも一種の「とりつくろい」だと想像できた。
「とりつくろい反応」にだまされ、親が認知症になったことに気づくのが遅れるケースは、結構多いのではないだろうか。わかっているように装って、父が正論を言っているのを事故の件以外でも何度か見た。
例えば、友達に電話して、父は共通の知人のことをこう言った。
「かわいそうに、認知症になったらしくて、私が電話しても、誰だかわからないんですよ。それなのに、自分のことは全部自分でやっているって言っているのだから、ご家族は大変だろうね」
私は唖然とした。オーマイ・ダッド!
『何言っているの! それって、パパとまったく同じだよ!』
同様に、高齢ドライバーが人身事故を起こしたニュースを見ても、他人事と捉えた発言をする。
「年取ると、足が悪くなるし、判断力が落ちるから危ないよな」
私はため息が出た。そして気づいた。自身の判断で「運転免許返納をする」人たちは、「正常な思考能力を失っていない」方々なのだ。自分の能力を自覚し、人に迷惑をかけないうちに運転をやめるのは、人生に対する想像力と、人への思いやりがあるからだ。もはや父にはそれがない。