結婚当初は、名古屋市内の県営住宅で暮らしました。横井は28年もグアム島で文明生活から遠ざかっていた。戦後日本の急速な変化についていくのは大変だったのではないか。よく、そんなことを聞かれます。
でも、彼は最初からまるで普通に日本で暮らしていたような感じでしたよ。もともと勘の鋭い人でしたから、すぐに適応したのでしょう。そういう不便さはありませんでした。
かばん持ちからスケジュール管理まで
それより苦労したのは、やはり慣れない取材や講演。もともと朴訥な人でしたが、テレビや雑誌、講演などは「仕事だから」と割り切って引き受けていましたね。たくさんの依頼をいただいていたので、スケジュール管理などをプロダクションにお願いする、という方法もありました。でも、彼の体を思うと心配で、私がマネージャーになり、かばん持ちからスケジュール管理まですべてを引き受けました。
初めのころの横井は、講演会でうまく話すことができなかった。その姿を会場で見て、「なんで彼にこんな苦労をさせているんだろう」と、涙を流したこともありました。横で講演を聞いていた方が、「悲しい話でもないのに、なぜ泣いているの?」と聞きます。でも、他の人にはわからないでしょう。本当にかわいそうでした。
仕事で話す機会は多かったけれど、私といるときはあまり話さないんです。畑に出て農作業をするか、何かモノ作りをするか。自給自足生活の経験から、結婚当初は「食べ物がないといけない」としきりに言っていました。そしてまず農業を始めた。野菜はほとんど自家製です。私は豆類が好きで、横井はよく、「うちには鳩がいるので、豆を作らなきゃ」なんて言っていましたよ。(笑)
グアムのジャングル生活では、道具ももちろん自作したそうです。ロープや草履はヤシの繊維を加工して。食料を貯蔵する籠は竹製です。飯盒や水筒を改造し鍋や食器も作った。
洋服も自分で作ったと聞きました。横井はもともとが洋服職人でしたが、まず原始的な機織り機を作って、現地人に気づかれないよう、音を立てないように注意して布を織っていった。ジャングルで発見されたときも、自作の洋服と背負い袋を身につけていたんですよ。
横井は後年、「洋服ができてからよりも、作っているときのほうが幸せだった」と言っていましたね。モノを作っているときの充実感と、毎日やるべき仕事がある喜びを言い表しているのだと思います。不便であっても、苦労が絶えなくても、生きていくうえで大切なよりどころがそこにあるのではないでしょうか。