横井庄一とともに生きる

2006年6月、私は名古屋市の自宅の一室に、「横井庄一記念館」を開館しました。「横井の生き方、そして戦争という経験を後世に伝えたい」。そういった思いからです。ジャングルで作った機織り機を横井が自ら再現したものや、洞穴の模型、横井が焼いた陶器など、約50点を展示しています。無料で開放しており、全国各地から、さまざまな年代の方がいらっしゃいますね。

先日、東日本大震災の被災地でボランティアをしていた、20代の男性がいらっしゃいました。彼は、「宮城の方が『津波のあとは、戦争のあとの焼け野原と同じだ』とおっしゃっていました。戦争のことを学ぶためにここに来たのです」と言ったのです。でも、私はこう伝えました。「確かに似ているけれど、地震や津波は天災で、戦争は人災。戦争は人が起こすものだから、人の心によって防ぐことができますよ」と。彼は別れ際に「戦争はまた起こるのでしょうか」とたずねます。私は「大丈夫」と言いたかったのですが、「なんと申し上げればよいのか……」と、答えを見出せずにいました。

戦後、日本は急速に豊かな国になりました。でも横井は、少し懐疑的な見方をしていましたね。贅沢に自分を慣らしてしまうのは危険なのではないか。人間の欲と欲がぶつかり合うと諍いや戦争が起きる。だから、あまり深い欲を持たず、何事も自重するくらいがちょうどいいのではないか。彼はそんなふうに考えていたと思います。

横井が亡くなって20年近く。日本を取り巻く状況は、あまりよくないように見えます。彼がこんな日本を見たら、きっと心中穏やかではないはず。彼が残してくれた平和の小さな灯を、次世代に引き継いでいかなくてはなりません。記念館も若い方に引き受けてもらえたら、とても嬉しいのですが。

私は、「第二次世界大戦で、自分は死んだ」と思って生きてきました。私の兄は海軍の予備学徒として戦地に行ったのですが、そのときの私は生きた心地がしなかった。神社に日参して、「自分の命はどうなってもいいから、兄を返してください」とお願いしたのです。そうしたら本当に、兄が無事に帰ってきてくれた。「奇跡が起きた。だからもう、私は死んだも同然だ」と。

そう考えて、一生結婚することもないと思ってきました。こんな話、兄が生きている間は言えませんでしたね。でも、私の前に横井があらわれました。もしかしたら、「兄を返して」とお願いしたときに、横井が私と一緒になることが決まったのかもしれません。だからこそ、横井の人生を伝えることが私の《天命》だと思って、これからも生きていくつもりです。