第2期生の役所広司さんが、「仲代達矢役者70周年記念展」の冊子に祝辞を寄せている。
入塾式の前日、地図を片手に無名塾の場所を確認しておいたにもかかわらず、当日は寝坊して大遅刻。仲代さんから第一発目の喝を受ける、とあった。
――彼は長崎のほうの子で、東京へ出てきて千代田区役所で働いてたんですよ。それで役所という芸名を僕がつけたんですが、もう一つは「役どころ広し」という意味もある。そういう役者になれよ、と言ってね。いつか長崎のスイカを持ってきて、「お前のスイカ美味いな」と言ったら、卒業してからも毎年スイカを持って来ますよ。
宮崎が亡くなる年に、役所は映画『Shall we ダンス?』(周防正行監督)で主演男優賞をいろいろもらいました。宮崎は「きっと総なめよ」って言ってましたから、塾の成果がある程度認められたわけで、よかったなと思ってます。
宮崎は65歳、膵臓がんで亡くなりましたが、亡くなるのを自分でもわかってて、あちこちから僕宛の手紙が出てくるんです。「二人で作った無名塾だけは絶対にやめないでね」とか、「エレベーターを造っておいたのは、たとえあなたが車椅子になっても塾生の指導ができるようにです」とかってね。
それで一人になってからも未だに四半世紀以上、塾をやってるわけですけど、もしやめてしまっていたら、一人の孤独な老俳優としてさまよっていたことでしょうね。それが今、若者たちに支えられて、こうして舞台に立っていられるというのは、それはやっぱり宮崎さんの先見の明のおかげだと思いますね。