「自分の名前のついた賞なんておこがましという気持ちはもちろんございます(笑)。齢(よわい)90まで生きて、チャンスのあるときに私なりにできることをしていこう、と。困っている人たちが少しでも生きやすくなるために活動している方々へ、ちょっとした助け、ご褒美になれば」と樋口さん。それを「長生きした人が人間らしく人生を全うできる社会を作る」ために役立ててほしいと願う。
さかのぼること40年前、介護保険制度導入以前の日本では、介護は家庭だけで担うのが当然で、担い手は女性たちだった。ジャーナリストとして全国の高齢者介護のありようを取材して歩いていた樋口さんは、問題意識を同じくする人たちに働きかけ、1982年に日本で初めて女性たちが高齢者問題を考えるシンポジウムを開催する。
それまで高齢者問題といえば、稼ぎ手である男性の課題がほとんどだった。というのも当時は婚姻率が高く、高齢男性の経済問題を解決すれば、女性はそれに付随して生きることが可能と考えられていたからだ。
樋口さんはそのころ厚生省(当時)の中央社会福祉審議会の老人問題部会でただひとりの女性委員だった。女性の立場から見た問題点を「女のくせにと言われぬよう、〈わきまえ〉つつ」丁寧に説明したが、論題に取り上げられることはほとんどなく、女性たちの声が社会に届いていないと痛感していた。
1982年に開いたシンポジウムは、椅子が足りずゴザを敷いて座る人もいるほどの大盛況に。介護問題の分科会であふれ出たのは、家族の介護のために人生を犠牲にしてきたという女性たちの嘆きの声の数々。介護は「嫁」という立場の女性ただひとりが担うケースがほとんどだった。双方の両親とおばの5人を1人で看た、という人も。
女性たちの思いを受けて、樋口さんの闘争心に火が点いた。「『嫁』を介護地獄から救う」をスローガンに掲げ、翌1983年に仲間たちと「高齢化社会をよくする女性の会」を立ち上げた(現在の「高齢社会をよくする女性の会」)。以来、全国で介護の実態を調査しては政府への提言を繰り返し、介護保険制度の設立に大きく貢献することになる。
樋口さんが仲間たちと活動をはじめた当初、生命保険文化センターから3年限定でスタートアップ資金を援助され、大いに助けられた。「樋口恵子賞」には、その恩返しの思いも込められている。