しかし2011年、変化の時が来る。軍事政権は「民政移管」を発表し、民主化と経済改革が始まった。外国企業が次々と進出し、15年には民主化運動指導者アウンサンスーチー氏が率いる「国民民主連盟」(NLD)が総選挙で圧勝した。
インターネットが解禁され、若者たちは瞬く間にIT技術を習得し、ソーシャルメディアや韓国ドラマに夢中になった。学校教育が改善され、公の場で政府批判もできるようになった。経済発展と民主主義は道半ばとはいえ、市民は自国に初めて希望を抱いた。
しかし、国軍がクーデターを起こす可能性は消えていなかった。軍政下の08年に制定された憲法が、国軍の政治関与を認めていたのである。そして実際にクーデターは起きた。
「豊かさに向かって走っている時代に、いくら国軍でもクーデターなんか起こすはずがない。そう思って僕たちは政治に関心を向けなかった」。20代前半で起業した元IT企業経営者は、自分たちは楽観的すぎたと自嘲する。
最初にクーデター反対の声を上げたのは、国立病院に勤務する医師や看護師らである。抵抗を意味する3本指サインを掲げ、職場を放棄して抗う「市民不服従運動」を宣言する写真が次々とソーシャルメディアに投稿された。
絶望し混乱していた市民はこれに奮い立った。運動は国有鉄道員や銀行員、教員、芸能界など社会のあらゆる分野に広がり、デモ参加者は日に日に膨らんだ。2月22日には全国で数百万人が「クーデター反対」の意志を通りに出て示した。長く軍政下にあったミャンマーでは前代未聞のことであった。
ヤンゴンに住む一児の母、スー(30)はインターネットにエッセーを投稿した。
「私たちは、怯えていなければならないと教えられて育った。恐怖を知らなければひどい目に遭う。上からの命令に従い、文句を言ってはいけない。これが私たちを、社会を形作った教育だった」
「残る人生も民主主義の中で生きたかった。再び、暗闇に放り込まれたくない。次世代が、私たちのように恐怖とトラウマと共に生きてはならないのだ」