当時の新宿は、夜になると文化人やアーティストが集まり、映画関係の人たちもよく飲みに来ていたようです。これは私の想像なのですが、誰か、酔眼でふっとビルの2階のマネキンを見て、「おっ、いい女がいる」と勘違いしたのではないでしょうか(笑)。ある日、映画会社日活の美術監督と衣装部の方が、木の階段をみしみしと上っていらしたのです。

お二人は私に、映画の衣装をやらないかと。思いがけないお話に、好奇心が湧いてきました。映画の仕事がどんなに大変かまったく知らないまま、お引き受けしたのです。

まずいただいた脚本を読み、登場人物をどのように表現するかを考えなくてはいけません。そして監督やスタッフの方たちと打ち合わせをし、撮影スケジュールに間に合うようにデザインして制作をします。急にスケジュールが変更になることもあるし、徹夜をすることもしょっちゅうでした。でもあの頃は若くてエネルギーがありましたから、新しいものをつくり上げていく喜びに、興奮していたのです。

当時は映画界がとても元気だった時代。吉村公三郎監督、小津安二郎監督、鈴木清順監督、川島雄三監督、大島渚監督、吉田喜重監督、篠田正浩監督など、さまざまな作品に参加させていただきました。監督は皆さん男性。ですから映画の仕事をしたおかげで、男性の目から見た女性の魅力を教えられました。得がたい経験だったと思います。

長い仕事人生の間には、仕事をやめようかと、迷った時期もあります。30代半ば頃、映画の衣装と注文服の仕事で多忙を極め、疲労困憊してしまいました。しかも、依然として和式中心の日本の生活スタイルと洋服文化は相容れない部分が多かった。目の前の現実と、自分が目指す理想とのギャップに落ち込んでしまい──。いっそ仕事をやめて、子どものために家庭に入ろうかしら。そんな気持ちになったのです。

1961年、仕事を休んで初めてパリへ行き、40日間滞在しました。そしてよく働いた自分へのご褒美に、シャネルの店でスーツをオーダーしたのです。そこで初めて、服をつくるヨーロッパの技術のすばらしさを、身をもって実感しました。