日本の戦争に ある意味加担した
わたくしが、国内で最初の女性報道写真家になったのは、日本が真珠湾を攻撃して太平洋戦争が始まる前年、1940年のこと。26歳になっていました。
入社した写真協会は、内閣情報部の外郭団体でした。日本の産業や文化、教育の様子を世界に発信する写真媒体に女性の視点も必要だというので、写真なんか撮ったこともないのに、フィルムの入れ方から教わっての、にわかカメラウーマンでした。
38年には国家総動員法が施行され、40年には、日独伊三国同盟が締結、大政翼賛会が発会しました。さらに41年には、治安維持法が施行されます。
編集部の壁には、ヒトラーやムッソリーニの写真、ナチスのカギ十字。どこを向いてもヒトラーを賛美する声ばかり。日本中、異様に高揚していましたね。周囲は、バンザーイ、バンザーイって。兵隊さんたちが「勝ってくるぞと勇ましく」って歌いながら出征していく。
勝った勝ったと戦争の景気のいい話ばかりが新聞に載って、軍部だけでなく、国防婦人会とか、それに同調してあおるようなものが日本中を埋め尽くしていくなかで、私は、ヒトラーユーゲント(*ナチス・ドイツの青少年組織で、36年、日独防共協定締結にともない訪日。金髪碧眼の少年たちに、日本中が沸きたった)や、三国同盟の華やかな祝賀会などの写真を撮るのに忙しく、結果として、日本の戦争にある意味加担したことになりましたね。
当時はマスコミ全部がそうでしたから。写真の暗室で、私と若いカメラマンは、「なんだこのちょび髭野郎」とか言っていましたけど、表に出れば「天皇陛下バンザイ!」。