手を貸してくれる人がいない昭和時代の介護

父が認知症を診断される2年前から私は、介護の心得や今後の諸手続きを教えてもらうために、地域包括支援センターに足を運んでいた。要介護になってからは、介護事業所の担当者が、いろいろ相談にのってくれている。

本当は、週に一度でも介護サービスを利用して、家事支援をしてもらいたいのだが、家事は娘がしてくれるものだと考える父は、なかなか同意してくれない。むしろ、支援を「拒否する」という表現の方が、父の実態に合っている。

40年前、私の母は49歳で、くも膜下出血で亡くなった。一人娘の私に何でも話してくれた母は、頭痛や耳鳴り、不眠や倦怠感を訴えていた。私は母に病院に行くことを勧めたが、内科の医師は、更年期の症状だから、いずれ治ると言ったそうだ。

当時は、中高年の女性の不調を「更年期」という言葉で片付けることが多かったので、仕方がないのかもしれない。

仮にその段階で脳に動脈瘤があるとわかっていたとしても、当時の医療では、破裂する前に防げていたかどうかはわからない。

私は、母の体調不良の根底には、同居する実母の介護による心身のストレスがあることに気づいていた。母のきょうだいは亡くなっていて、親の面倒は自分一人で責任を負わなければならないと思っていたのだろう。父にはその辛い思いを隠しているようだった。

少しでも母の負担を減らすために、私は粗相した祖母の下着を洗ったり、ポータブルトイレの洗浄などを手伝った。母が一人で自由に過ごす時間を持てるようにと、留守番をして祖母の面倒をみることもあった。

母は亡くなるひと月ほど前に、泣きながら私に言った。
「市役所に、おばあちゃんがボケてしまって、家で面倒を見るのが辛いって、相談の電話をしたの」

私は深く考えずに、母に聞いた。

「おばあちゃんの世話、手伝ってもらえそうだった?」

「介護は、家族でしてくださいって言われたわ……私は、ただ、聞いて欲しかっただけなのに……大変ですねって、言ってほしかったのに」

我慢の限界に達していたのだろう。泣きじゃくる母に、慰めの言葉が見つからなかった。

介護支援をしてもらえない苦しみを抱えていた母に比べると、今の私の負担は小さなものに過ぎない。義妹やデイケアサービスにも助けられている。

だから頑張ろうという気持ちと、娘が介護するのが当たり前と思っている父に対する不満が、心の中に交互にやってくる。